2020-02-01から1ヶ月間の記事一覧

28)小学校の前に住んでいる

ブログ20)~27)では茨城時代の、特に筑波大学での日本語教科書の作成や、当時の日本語教育について描写した。年代的には1980年半ばから2003年あたりのことである。自身にとっては大学院を修了し、筑波大学の講師から助教授になった期間である。 日本語教育…

27)授業を見せていただく(4)

筑波大学でU先生の授業を参観する機会を得た。U先生は会話教育だけでなくコースデザインなど教授法の専門家で、シンガポール大学でも独自の教科書作りに関わっておられた。 U先生の授業はSFJ第9課の会話練習であった。学生はいろいろの国から10人ほどであった…

26)会話力と文法力を育てる(2)

コミュニカティブアプローチというのは、言語伝達能力を養成することを目標として、1970年初頭に誕生したアプローチである。 コミュニカティブアプローチの基本原則は、次のようである。 1)クラス活動では、今「何を」しているかを知っていなければならな…

25)会話力と文法力を育てる

岡崎先生(元筑波大学教授)は、彼も信念の人であるから、会話教育をしながら、会話を主体にしながら、文法力が付く方法は絶対あるとおっしゃっていた。 そして、そのとき、例えば、会話のやりとりの中で、 「きのうどこへ行ったの」 「東京」 「だれと行っ…

24)教科書(SFJ)作り(3)

前回は、筑波の先生方で、班、つまり、会話班、文法班、語彙班、タスク班というものが作られ、それぞれが自分のやりたい班に入ることになったというところまでお話した。 今回は実際的にどのように教科書が作られていったかをお話ししたい。 まず、会話班が…

23)教科書(SFJ)作り(2)

筑波の留学生センターとして、独自の教科書が持ちたいという気持ちが高まりつつあった最中に、では、皆それぞれはどんな教科書を作りたいかを、率直に意見を出し合おうという会合が計画された。 一泊泊まりで、筑波山の裏の研修センターに筑波の留学生センタ…

22)教科書(SFJ)作り

1985年ごろの筑波大学は、留学生センターができたところで、教科書も『新日本語の基礎』の会話の部分を筑波大学向けにアレンジして使用していた。 筑波大学留学生センターとして、独自の教科書を作りたいという気持ちが、専任、非常勤両方の先生方の中に強く…

21)大学院の授業

筑波大学大学院の入学式はちょうど息子の中学の入学式と重なり、欠席せざるを得なかった。当時の私にとっては息子の入学式のほうが大切であった。 地域研究研究科には日本語教育養成講座があり、日本語コースの学生はそれを受講することになった。 授業は、…

20)大学院受験

1983年3月、夫の転勤に伴って、名古屋を離れることになった。非常勤講師でお世話になった、いくつかの日本語教育機関をすべて辞し、茨城県に移り住んだ。 非常に寂しかった思いと、また、新天地へ向けての嬉しさのようなものの入り混じった、複雑な気持ちだ…

19)非常勤講師のあり方について

私は名古屋に13年滞在し、そのほとんどの部分を非常勤日本語講師として過ごした。私立大学、国立大学、AOTSなどにお世話になったが、非常勤講師という立場について考える期間でもあった。 時代はどんどん変わり、非常勤講師のあり方も変化してきていると思う…

18) 授業を見せていただく(3)

そのころの名古屋大学は水谷修・大坪一夫の両先生がおられ、藤原雅憲先生のような若手、そして、意欲的な非常勤講師がばりばり仕事に取り組んでおられた時期であった。 当時の名古屋大学の先生方の毎日の作業の一つに、新聞のテレビ欄を見ることがあった。つ…

17) 授業を見せていただく(2)

アメリカから客員教授として来日されたB先生には視聴覚教育について、楽しいお話を聞かせていただいた。 お話によると、B先生はときどきネクタイの色を変えたり、服装を変えたりして授業に臨まれるそうだ。すると、学生はいつもと違う先生を見て、「先生、新…

16)授業を見せていただく

名古屋時代は、いくつかの大学で何人かの先生に授業を見学させていただいた。その中から、今回は水谷先生の授業についてお話ししたいと思う。 水谷先生が、日頃よくおっしゃっていたことは、「人に不快感を与えない日本語」を学習者に身に付けさせたいという…

15)名古屋時代(3)

前回は名古屋大学のCMJという初級日本語教科書についてお話した。AOTSで、文型中心に日本語を教え、文型中心の教科書作りに関わった私にとっては、CMJが文型ではなく、文の構造を教えるというところが、驚かされたところであった。 当時名古屋大学の非常勤も…

14)名古屋時代(2)

1975年代というのは、もうフランスなどではコミュニカティブアプローチが始まっていたが、日本語教育ではまだ直接的には始まっておらず、依然オーディオリンガルメソッドが続いている時代だった。 私が非常勤講師としてお世話になっていた名古屋大学の水谷修…

13)名古屋時代

1970年にタイから帰国した私は、新しく設立されたAOTS4番目のセンター、中部研修センター(CKC)の日本語主任として、名古屋に赴任することになった。 名古屋インターチェンジのすぐそばの松林を抱くセンターは、中庭も広く手入れが届いていて、モダンな建…

12)書くことと私

AOTSに入社して1,2年経ったころ、パキスタンの研修生が「自分は占いができる。パキスタンでは占い師でもあった。」 と言って、(遊びに)KKC職員の手相を見てくれていた。若い職員は興味津々であった。私もその一人だった。 ある日、彼は私の手のひらを見て…

11) 新米日本語講師時代(4)

私がKKCに就職した当時は、前にもお話ししたようにAOTSの日本語教育は、東京では東京外大、大阪では大阪外大(現在の大阪大学)の先生方にお手伝いいただいていた。KKCにおける日本語教育の中心は大阪外大の寺村秀夫先生であった。 KKCでは、その当時、いろ…

10)新米日本語講師時代(3)

その後、KKC(関西研修センター)だけでなく、各センターにも専任の日本語講師が採用されるようになった。そして、数年後、全センターの専任講師の手で『Practical Japanese Conversation』とは違った、AOTS(海外技術者研修協会)の新しい教科書を作ろうと…

9)新米日本語講師時代(2)

1966年ごろは、日本語教育ではアメリカの構造主義全盛の、オーディオリンガルメソッドが主流の時代であった。オーディオリンガルメソッドというのはオーディオリンガルアプローチとも言われ、まず、「言語は構造体(structure)である」「言語は本質的に音声で…

8)新米日本語講師時代

日本語教育の黎明期に日本語教育に携わった者として、その当時に日本語教育について触れておきたいと思う。 1966年当時は、AOTSには3つのセンター(東京研修センター、横浜研修センター、関西研修センター)があり、そこでは発展途上国からの技術研修生に対…

7)タイへの留学(2)

(タイ続きで・・・) タイで仕事とも留学ともつかないことをしているときに、一人の先輩から手紙が届いた。手紙には「建築家の友人にバンコクの寺を案内してやってほしい。」と書かれていた。そして、手紙の文末には「彼には奥さんがいるから、好きにならない…

6)タイへの留学

AOTS(海外技術者研修協会)に入社して3年目にタイに留学することが決まった。目的はタイ語の習得と、タイでの日本語教育であった。 (アポロ11号が月面着陸に成功した年で、バンコクの宿舎でテレビ中継を見た記憶がある。今から考えるとそれほど昔の事柄で…