21)大学院の授業

 筑波大学大学院の入学式はちょうど息子の中学の入学式と重なり、欠席せざるを得なかった。当時の私にとっては息子の入学式のほうが大切であった。

 地域研究研究科には日本語教育養成講座があり、日本語コースの学生はそれを受講することになった。

 授業は、草薙裕先生(元前家政女子大学学長)の言語学概論、堀口純子先生(元明海大学教授)の教授法、佐久間まゆみ先生(元早稲大学教授)の文章論、大坪一夫先生(元東北大学)の「良い学校とはどんな学校か」という授業もあった。

 寺村秀夫先生には、現代文法の授業を受けた。

寺村先生はたぶんご多忙のためだったと思うが、授業はいつも10分以上遅れて始まった。先生の授業には他の専攻の学生も集まるので、常に60人位の学生が参加していた。

 寺村秀夫先生は授業には必ずプリントを用意されていた。このクラスのための独自のプリントで、プリンターの調子が良くなかったと言って、20分ほど遅れることもあった。

「部屋出る」「大学出る」なのに、どうして「煙が煙突出る」と言わないのかという講義があったのもそのころである。

 先生の授業のあとには、いつも何人かの学生が教壇まで質問に行っていた。いつも5人か6人はいたと思う。先生は丁寧に、順番に答えておられた。夕方の最後のクラスだったので、先生も急いで切り上げられるふうもなく、学生の質問に付き合っておられるようであった。

 大学院2年になると、そろそろ修士論文の準備をしなければならない。

寺村秀夫先生は体調を崩されこともあってか、地域研究研究科の学生の指導教官にはなられなかった。私の場合も指導教官は湯沢質幸先生で、副指導教官が寺村秀夫先生だった。このあと寺村秀夫先生は大阪大学のほうに移られることになったので、先生に指導していただくのは私達が最後ということであった。

 日本語専攻の学生には文法についての論文を書く者が何人かおり、指導教官、副指導教官とは関係なくても、寺村先生の指導を受けようとする者が多数いた。先生は週の2日の午後を学生の指導に当てておられたが、先生の研究室の前の廊下はいつも何人かの学生が並んでいた。

 寺村先生の学生への対応は次のようだ。

まず、前回先生に助言をいただいてから今回まで、どんなふうに学生の論文が進んだかを学生自身に説明させる。しどろもどろで説明するのをじっと聞いていらっしゃって、それが研究に値いするようなものの場合は、先生は一言、「おもしろいな」と言われる。逆の場合は、「ちょっとむずかしいな」。

 指導の時は、先生がいろいろ説明されるのではなく、むしろ学生のほうが説明しなければならない。

「こういうときはどう説明するんや」の質問に答えなければならなかった。

ところが、不思議なもので、先生の前で汗をかきながら説明しているうちに、自分自身の理論につじつまが合わなくなってきたり、論理的に説明できなくなったりして、足りないということが見えてくるのである。そして、その自分で説明できないところが、次の課題となってくる。

 

 そのころ筑波大学の地域研究研究科や文芸言語の学生達の間では「鬼の草薙」「ほとけの寺村」という言い方があった。草薙先生はこわくて、寺村先生はやさしいということであるが、ある面では当たっているが、こと論文指導に関しては、寺村先生は決してやさしくはなく、学生がきちんと説明できるのを、何も言わずにじっと待つという、学生にとっては厳しいものがあった。

 

 寺村秀夫先生は学生の間だけではなく、大学の近くのお店の人にも人気があった。

 近くの中華料理屋は小さい店であったが、味がよいのでコンパなどにもよく利用されていた。先生が大阪大学に移られるのを、店の女将さんはとても残念がっておられた。寺村先生は絵を描かれるが、その中華料理屋のおかみさんも絵を描いて出展をするということで、単なる客と女将さんのつながりだけでなく、絵のつながりも強かったようだ。