コロナ禍で2か月ほどステイホームを余儀なくされた。世間の人達はその間に、家の片づけをしたり、家族のためにおいしい料理を工夫したり、読書にいそしんだり、いろいろされたことだろう。
私もいろいろ試みたが、何といっても大学時代に学んだミャンマー語の勉強を再開したのは、コロナ禍の影響かもしれない。
1989年にビルマ連邦はミャンマー連邦となり、後にミャンマー共和国となった。国語の呼び方もビルマ語からミャンマー語になった。(このエッセイではビルマ語という呼び方をする。自分の中でミャンマー語という名がなかなか身に付かないためである。)
私はO外国語大学(以後O外大)のビルマ語科の卒業生だが、4年間ろくに勉強しなかったことを心のどこかでずっと後悔している。
O外大では1年生から専門の語学学習に入る。授業が始まって初日からビルマ語の発音の練習が始まった。東南アジアに興味があったことと、映画「ビルマの竪琴」に感動したことぐらいが、私がビルマ語学科を選んだ動機であった。何より、その当時人気の出かかっていた中国語などと比べて、はるかにO外大への受験率が低かったというのもビルマ語学科を選んだ大きな理由であった。
「何のためにビルマ語を勉強するのか?」という確とした目標がないまま、4年間ビルマ語を勉強する。ビルマ語の文字の読み方から、書き方、発音、単語など、興味があればこそ、我慢して覚えようと努力もできるが、目標もない、興味もない自分には、大学の授業はつらいものであった。
もちろん小心者なので授業はできる限り出席したが、予習も復習もしない、いい加減な学習態度であった。
それであるから、卒業時になってもビルマ語では自己紹介ぐらいしか喋れなかった。卒業して日本語講師時代、ビルマ出身の留学生が10人ほど、ビルマ語を勉強した日本語の先生ということで私に会いに来たことがあった。私はしどろもどろで、あの時ほど自分の不勉強を情けなく思ったことはなかった。
ただ、4年間も勉強したのであるから、4年生時ではビルマ語の雑誌を読むことはできていたように思う。
当時アジアの諸国の経済成長が著しく、東南アジアから日本へ勉強に来る留学生や研修生が増えていた。海外技術者研修協会(AOTS)の日本語講師として採用されたのは、私がビルマ語を専攻していたからでもあった。
当時AOTSの顧問であった日本語学の権威故寺村秀夫先生が、「ビルマ語には日本語で言うオノマトペ―があるの?」と興味津々に尋ねられたのを覚えている。どんどん、ぴょんぴょん、ドキドキなどの擬態語・擬音語表現を、ビルマ語ではどう言うのか、先生は非常に興味を持っておられた。
ビルマ語から逃げていた私は、寺村先生の質問にも答えられなかった。
O外大を卒業して50数年になる。その間ずっと、「たぶん自分は、一生ビルマ語を勉強することはないだろう」と思い込んでいたが、コロナ禍で家の中にいる時間がたっぷり与えられたとき、なぜかビルマ語をもう一度やり直してみようという気になった。たぶん過去の自分への反省が、取り戻すことはできないけれど、そうさせたのであろう。
何から手を付けるか、まずはインターネットを覗いてみようと思った。そして、そこに数多くのビルマ国紹介や、ビルマ語紹介、入門練習などが紹介されているのを知った。
今人気上昇中のタイ語に比べれば、その数はかなり少ないが、色々な人や機関が、ビルマ(ミャンマー)語についての説明を載せている。外国語大学の東西の雄であるT外大、O外大(現O大学外国語学部)がしっかりした学習プログラムを持っている以外に、留学生(だった?)らしい女性が、発音、文字、文法などを、彼女なりに工夫をしてビデオに撮り、シリーズものとしてアップしていたのには感動した。彼女の一生懸命な振る舞いに、「こんなに分かりやすく、丁寧に教えてくれているんだ」と涙が出そうになった。
インターネットではT外大、O外大(現O大学外国語学部)のプログラムがよくできている。特にT外大のプログラム「T外大言語モジュール」は網羅的で、かつ系統的にミャンマー語を導いてくれる。40ある場面会話は、ミャンマーで収録されたようだ。O外大のプログラムは文法説明が丁寧なので、「ふんふん、そうかそうか」と筋道が納得できる。
この一か月まじめにビルマ語を勉強した。夜中ふと目を覚ますと、スマホで復習したりした。大学時代に習ったことをかすかに覚えていることもあった。単語がなかなか、というか、全然覚えられないので、絶望的な気持ちにもなった。
こんなに勉強して何になるのだろうという疑問もある。しかし、心のどこかに、日本人があまり知らないビルマ語を、「私は初歩の初歩だけど知っているよ」という、自負というか自信ができてきたように思う。
それにしても、大学生の時に、どうしてビルマ語を勉強しなかったのかという後悔がどんどん強くなってくる。