20)大学院受験

1983年3月、夫の転勤に伴って、名古屋を離れることになった。非常勤講師でお世話になった、いくつかの日本語教育機関をすべて辞し、茨城県に移り住んだ。

非常に寂しかった思いと、また、新天地へ向けての嬉しさのようなものの入り混じった、複雑な気持ちだった。特に小学5年生の息子が、あと1年を置いての転校だったので、一人、部屋で泣いていたのが、今でも記憶に残っている。

 こうして、私の日本語教育人生は、大阪から名古屋へ、そして、茨城へと東、東と進んでいくことになる。

 名古屋から移ってきたときは、関東の地で、また非常勤講師の職を探すより、少しまとまって勉強したいという気持ちがあった。

 大学で専任になりたいのであれば修士号が必要なときでもあった。筑波大学のように、その当時すでに、非常勤講師でも修士号が必要なところも出始めていた。

 私が筑波大学修士課程を受験することを夫に相談したとき、妻は家庭にいてほしいと思っているはずの古風な夫が、「それはいいことだ」と積極的に賛成してくれた。

受験の決心をしたのは6月も半ばであった。入学試験は9月上旬であったので、2,3か月しか準備期間はなかった。

 私が受験を予定していたのは、筑波大学の地域研究研究科の日本語専攻だ。研究科には日本、東アジア、アメリカ、ヨーロッパ、アメリカなどの地域別研究科があり、日本研究科は日本文化専攻と日本語専攻に分かれ、日本語専攻の中に日本語教師養成プログラムが組み込まれていた。

そのころ地域研究研究科では受験のために外国語が2つ必要であった。一つは英語として、あと一つは・・と考えて、無謀にも中国語で受けることにした。名古屋時代に中国の留学生に中国語を、半年ぐらいの期間だったが、習っていた。中国語が好きだったこともあり、再度、初級から復習した。

筆記試験は何とかこなすことができた。小論文は、社会人としての実体験に基づいて書ける部分があり、自分なりの理論と考えをまとめることができた。

 筆記試験の翌日、面接があった。5,6人の先生方が試験官として座っておられた。研究科で何を研究したいか、日本語教育に対して、どのような問題意識を持っているかなどの質問があった。

その中では、「そのお年で大学院の勉強は無理ではありませんか。」という意地悪の質問もあった。

当時私は42歳、今でこそ熟年の方が大学に再挑戦する姿はよく見られるようになったが、やはり42歳は研究には大変だと思われたのだろうか。

私は「主人が応援してくれますので大丈夫です」と、あえて余裕の笑顔で答えた。(あとで「あれはのろけだったのだ」と言われたが。)そのためか、面接の場の雰囲気がぐっと柔らかくなった気がした。

 地域研究研究科はリカレント(recurrent)と言って、一度社会に出た人が、また大学に戻って研究することを奨励していた。その点では、私たちはリカレントにふさわしい学生だったかもしれない。

 私たちというのは、私にとっては「筑波の親友」ともいうべき、また後年筑波大学留学生センターで教授として大活躍される小林典子さんが、そのとき同期に入学されていたのである。

 私たち2人の「おばちゃん学生」の学生生活が始まったのである。