220)この絵を見てどう思いますか?

  大学院では専門が「日本語教育」であった。選択科目に「美術」を選んだ。高校時代も書道・音楽・美術の中で美術を選んだくらいなので、我ながら美術に興味があったのであろう。

 最初の授業で、先生は大きな図版を教室に持ち込んだ。大きなポスター大の、厚めの絵図である。

        

 

それは「源頼朝」の肖像画であった。昨年のNHK大河ドラマは「鎌倉の13人」であったが、鎌倉幕府を開いた頼朝の肖像画である。

 

インターネットにおける京都国立博物館の説明は、次のようである。

 

        

 

 強装束(こわしょうぞく)の肩を強く張り、その端から直線的に下りる袖の作り出す三角形の安定した構図には重厚さがあり、院政期の耽美的な絵画とは全く異なる新しい感覚を示している。(中略)鎌倉前期の大和絵肖像画の代表的傑作である。

 

 頼朝の肖像画は本物ではないという説もあるが、大学の先生が準備したのは、この肖像画であった。

先生は、10人ほどの学生にその絵を見せる。先生はその絵について何も解説しない。先生が言ったことは、「この絵(肖像画)を見て、思ったこと、感じたことを、何でもいいですから言ってください」であった。

そして、学生一人ずつに、絵を見て気づいたことや感想を言わせる。端から順に、全員にである。ともかく何かを言わなければならないから、各学生は絵を一生懸命見る。

 

        

「どこかの偉い人、将軍のような人だと思います。」

「絵からは端正な武人の感じがします。」

「間違っているかもしれないけど、源頼朝だと思います。」

「よく分からなけど、絵全体に凛とした緊張感がある。」

「真正面ではなく右斜めから描いている。」

「面長で、ひげを生やしている。」

などなど。

 

自分自身がその時何と言ったか覚えていないのが残念だが、思い付いたことを言えばよいので、何かしらいい加減なことを言ったような気がする。

先生は、学生が話している間はほとんど口をはさまなかったが、途中で「これは源頼朝肖像画と言われている」というようなことはおっしゃったように記憶している。

その先生の授業は、半年間に10回程度あった。毎回同じやり方で、毎回持って来る絵画が異なるだけであった。国内国外、時代を問わない作品であった。

 

レオナルド・ダヴィンチの「モナリザ」の時もあった。その時までは、モナリザの顔しか見ていなかったが、作品をじっくり見ると、いろいろのことが見えてくる。

 

         

「誰を見て、微笑んでいるのだろう?」

「前で手を重ねているが、右の手が大きすぎる感じがする。」

「後ろに景色が描かれている。この景色はどこだろうか?」

「景色とモナリザとはどんな関係があるのだろうか?」

 

先生は次回の作品については何も言わない。学生は準備することなく、ぶっつけ本番で自分の感想を述べるばかりである。先生は、個々の学生の感想について、解説したり、付け加えたりしない。終わりごろに、これは誰それの、いつ頃の、何という作品であるということだけ説明する。

 

 先日テレビを見ていたら、某美術館の学芸員さんが、展示作品の見方を説明していた。

         

 

美術の展示には作品ごとの説明書きがあるのが普通であるが、学芸員さんは説明書きを先に読むのではなく、読むのであれば、絵画を自分の目で十分見たあとのほうがよいと言っていた。

学芸員さんは自分達も作品の説明書き作成に関わっているのだから、たぶん来場者全員に読んでほしいはずなのに、「まずは自分の目で見て、感じてほしい」と言う。

また、学芸員さんは、日本人は、まず説明書きを読む人が多いとも言っていた。

 

         

 

 学芸員の話は、大学で受けた美術の授業のやり方と同じであった。

そうか、大学の先生は、専門家の「説明書き」にはとらわれず、まずは自分の目で見よと言いたかったのだろうか。

人の説明をうのみにするのではなく、自分で見て、自分で感じ、自分で考える力を授業で育てようとされたにちがいない。

 

私は説明書きも読むが、どちらかというと、作品の鑑賞を大切にする。自分で見て、何度も見て、自分なりに考えて、そのあとで説明書きを読む。

説明書きに人だかりがしていると、あえて読まない。自分の感じ方・考え方だけで、その場は良しとしてしまうことが多い。

説明を読むのが面倒くさいということもあるが、これは、大学での美術の授業の影響なのかもしれない。