最近はまるで写真のように実物そっくりな、例えば「植物細密画」のような絵もあるし、中井精也(当ブログ116で紹介)が撮るような、写真家の世界観いっぱいの絵のような写真もある。
写真と絵の境界線は時代とともにどんどんなくなってきている。
撮る側(写真家)、描く側(画家)ではなくて、見る側(私達)だけから考えたとき、写真と絵画にはどんな違いがあるのだろうか?
ここに小学生が描いたような絵がある。一種の肖像画だ。数年前に父と母を亡くして、しばらくしてから、この2枚の絵が居間の壁に掛かっている。
普通、親を亡くした場合は、仏壇の上や近くに、亡くなった人の写真を飾る。多くの場合、お葬式などで飾られた遺影が多いが、そうした遺影も形式的な、固い写真ばかりではなく、最近では、本人の若いころの写真や、笑ったものなどスナップ風なものも多くなっている。
私の両親の正式の遺影は、後継ぎである弟一家の仏間に飾られている。黒白の、両親とも穏やかな顔の、しかし、きちんとした写真である。
小学生が描いたような絵は、実は私自身が描いたものである。両親が亡くなって、しばらくして両親の写真を見ながら描いた。あまりに稚拙な作品なので、かなりの間自分の部屋の隅に仕舞っていたが、2年ほど前に両親のことがなつかしくなって飾るようになった。
居間にあるから毎日見る。そういえば、最近、両親、特に母親のことを思い出すことが多くなった。絵を毎日見ているからか、下手な絵の中の母が、微笑みかけてくるような気がする。そしてその度合いが日ごとに強くなっている気がする。
私のほうから「お母ちゃん、元気?」などと話しかけてしまうこともある。
父母の肖像画も、色々なことを思い出させてくれる。あんなこともあったね、こんなこともあったねと、つい話しかけてしまうこともある。
そこでふと考える。これが絵ではなく、写真だったらどうであったのだろうか、と。
(下は黒白写真をイメージしてみた。)
一般的に言われていることは、「写真は客観的な事実を記録するもの」「写真は目の前に存在する物しか記録できない」などである。
一方、絵は「見ている人の想像力に訴える」「主観的である」「物体として存在しないものでも描くことができる」などと言われる。
一つ言えることは、居間に飾ってあるものが、もし絵でなく写真であったら、たぶんこれほどには毎日見ることはなかっただろうということだ。
したがって、自分の想像力をふくらませて、過去のことを思い出したり、遺影に向かって話しかけたりすることも少なかったのではないかと思う。
つまり、写真でなく絵であることで、見る側の想像力を引き出す力が大きくなったのではないか。と同時に、絵の中の人にこれほどの親しみとなつかしさを感じなかったのではないか。
稚拙で笑ってしまうような絵だけれど、なつかしい思い出の人の肖像画にはそれだけの力があるのであろうか。絵の力はそれほどに大きいのだろうか。
とにもかくにも、下手なりに描いてよかったのかなあと思う今日この頃である。