ぎりぎりまでゴタゴタしていたので、どんな開会式になるか心配していた。結果的には、控え目であったが、震災復興への癒しや励ましも取り入れた、優しい式典になった。
7月23日午後8時から32回オリンピック大会の開会式が始まった。約3時間半のテレビ放映である。そのうち2時間に上る選手団の入場は、時々睡魔に襲われたが、登場する選手達が嬉しそうな、明るい顔をしていたので、ホッとした。
カメルーンやナイジェリアの民族衣装がとれもきれいだった。また、ポルトガルの選手達がジャンプしながら入場してくる自由な姿にも元気をもらった。
国立競技場の、大きな白っぽい楕円形の床に、鮮やかな赤を中心としたイルミネーションのマッピングが浮かび上がる。楕円形の床の周りを、ボランティアの人達が踊りながら、その踊りがいつまでも続いて、選手たちに声援を送っている。
入場してきた選手達は彼女達に誘導される形で、マッピングの中に取りこまれていく。赤や緑や黄色の衣装の選手達そのものが、いくつもの点となり、美しいマッピングを形成していく。
開会式に登場した音楽や歌そのものが、しっとりした静かなものであった。日本古来の祭りをテーマにした出し物も太鼓などは使っていなかった。
ミーシャさんの国歌斉唱も絶叫調ではなく、静かで厳かな歌い方だった。世界各地の人が歌うジョンレノンの「イマジン」も、高校生たちによる「オリンピック賛歌」も、静かでしっとりしていた。
1800余りのドローンを使った大きな地球ボールも、きらきらと美しく、東京上空に浮かんでいた。開会式で披露されたいくつかの出し物も、手作りで日本的だと思った。
いくつものカラーボックスを円形に並べたり、1直線にして取り囲んだり、すべて手作業で変化する。一斉に飛ばす鳩も紙飛行機で作られていたし、57年前のオリンピックで考え出された「ピクトグラム」(絵文字・絵単語)のショーも、すべて手作りで、感動させられるものであった。
聖火の点火式も工夫されていた。聖火は、金メダリストの柔道家野村忠宏さんとレスリングの吉田沙保里さんから始まって、長嶋・王・松井さん、医師とクルーズ船での看病に当たった看護婦さん、パラリンピック代表の土田和歌子さん、そして、岩手・宮城・福島の6人の子供達へと引き継がれ、最終ランナーは、誰あろう、大坂なおみさんであった。
うつ病だった人がなぜ?という意地悪な質問をする人もいるかもしれないが、彼女の国際人としての知名度は最終走者としてぴったりであるし、何より、彼女のために良かった。
これをきっかけにして、今までのことを忘れて、また元気に、テニス界に戻ってこられるだろう。日本もたまには良いことをすると、少し胸が熱くなった。
オリンピック開会の前、菅首相は次のようにオリンピック開催の意義を述べていた。
「新型コロナという大きな困難に直面する今だからこそ、世界が一つになれること、そして人類の努力と英知によって難局を乗り越えていけることを東京から発信したい。安心・安全な大会を成功させ、未来を生きる子どもたちに夢と希望を与える、歴史に残る大会を実現したい」「人類の努力と英知によって難局を乗り越えていけることを東京から発信したい」
私は菅首相の説明が抽象的で、今一つ腑に落ちなかった。オリンピックを開催して選手達が一堂に会すれば、世界が一つになり、難局を乗り越えていけるのか? オリンピックの開催が、なぜ、イコール、世界の連携・平和の構築につながるのか? という疑問が残っていた。
開会式をすべて見終え、そこに生まれるエネルギーや感動を見て、私はオリンピック開催の意義が分かったような気がした。
オリンピックを開催するから、難局を乗り越えられる、世界が平和になる、というのではないのだ。
つまり、このオリンピック開催という「事実」をきっかけにして、この開催という形式を「機動力」にして、これから私達は力を合わせて、困難打開・連携・平和を築いていかなければならないということなのだ。
これからすべてが始まる、始めなければならないのだ。
その決心をすることがオリンピックの開催の意義なのだ。
オリンピック開会式に対しては、いろいろな意見がある。それについては、号を改めて、また考えてみたい。