(9月5日に2020パラリンピックは終わった。今回のエッセイは遅きに失した感があるが、あえて載せてもらうことにした。よろしくお願いします。)
私は長年日本語教師をやってきた。アフリカ、アジア、中南米、ロシア、中東、欧米・・からの留学生や技術研修生たち。
海外のいろいろな人多たちと接して、私は人種の違いや皮膚の違いを乗り越えていった。彼等からいろいろな考え方・とらえ方があることを教えられ、自分の世界を広げることができた。偏見や先入観は乗り越えたと思っている。
しかし・・・。
私はパラリンピックが始まるまで、身障者の人達の試合やゲームを見て、何を楽しめばいいのかが分からなかった。
従来の健常者のオリンピックであれば、スピードや鍛えられた技術や演技や美しさを楽しむことができる。
パラリンピックでは、スピードといっても、超人的な記録を出すわけではないし。技術といっても制約がある。
私は今大会をいい機会だととらえて、身障者ってどんな人達なのか、パラリンピックって何なのか、身障者が試合をする、競争をする、闘いをするってどういうことなのかをじっくり見てみようと思った。
最近、心理学(現象学)の講演で、「知る・分かる・(ともに)生きる」ということを聞いた。人は何かを初めて知り、少しずつそれについて分かっていく。
人の場合なら、誰かと初めて出会い、その人の名前を知り、性格を知り、だんだんその人のことが分かっていく。
しかし、その学問の考え方では、もう一つ上のステップにまで行かないと本当に「知った、分かった」とは言えないという。「知る・分かる」は頭だけの理解である場合が多く、その物やその人とともに生きていって初めて、その物やその人のことが分かるのだと言う。「ともに生きて」というより、「その物やその人を生きて」と言ったほうがより正しい。
平たく言えば、「その物やその人の中に入り込んで、時間をかけて、いっしょに生きていく」ということだ。
私はその考え方に同調するところがあったので、「よし、パラリンピックを通して、身障者の人を理解しよう」と考えた。逃げていないで、彼らのありのままの姿を見て、行動を見て、言動を聞いて、彼らを本当に知る努力をしようと思った。そうしたときに、パラリンピックとは何か、そこで何を見、何を感じ取ればいいのかが分かってくるような気がした。
開会式も最後まで見た。上半身しかない男性ダンサーがくるくる回る踊りも見た。そして、初日の競泳もテレビで必死になって見た。
背泳ぎ女子100mでは、出場選手は様々だった。両手のない人、片足だけの人。
足だけで進む人、両手で万歳を繰り返しながら泳ぐ人、短い手をちょろちょろ回す人、などなどがいた。
平泳ぎ男子50mでも、片腕がない人、腕があっても肘までの人、手先だけの人、足が極端に細い人、下半身まひの人、下半身(ももから下)がない人などがいた。
彼らはスタートのときも、係の人が1人、または2人がかりで足を持ち、スタート待ちをさせる。
飛び込み方も人によって違う。立って飛び込む人、座って飛び込む人、初めから水の中にいる人。
彼らの中には障害者として生まれてきた人もいるだろう。後年何らかの病気から障害が発症してきた人、事故で障害者になった人もいるだろう。
彼らは障害を受け入れ、できる限りの治療を受け、痛みと苦しみと絶望の中で、生きる力を得てきた人たちだ。
スポーツが彼らに生きる力を与えたのだろう。水泳選手の1人が「水泳がなければ、挑戦する行動力はなかった」と言っていたが、彼らはスポーツを通して、人生に挑戦してきたのだ。
彼らの努力や頑張りには感動する。偉いなあと思う。自分も頑張らなくちゃと思う。
このことがパラリンピックを開催する意義なのだろうか? 彼らの頑張りを見て、感動すればそれでいいのだろうか?
「そうだよ」と言う自分がいる。一方で、それだけじゃないはずだと言う自分がいる。
私の疑問はまだまだ続きそうである。