井筒和幸監督というのは、昼間のワイドショーなどのコメンターにもよく出ているが、ひげ面で、何となくだらしない話し方で、あまり好きになれなかった。
年を重ねるにつれて、テレビでは清潔な感じで、見ていて気持ちのいい男性を見たいと思うようになってきている。むさくるしいのは嫌!! だってテレビに出るんだから、そのくらいエチケットではないか。
その点では井筒監督は、全く美しくない。話し方もよくない。
ところが、先日のインタビュー番組(NHK深夜便午前4時の「明日への心」)を聞いて、「そうでもない。いいこと言うな。やっぱり監督だけあるな」と思うようになった。
井筒監督が今まで撮った映画は愚連隊物や不良を扱ったものなど、世間の底辺の人々を対象にしたものが多い。10数年前に撮った「パッチギ」(在日朝鮮人の男子高校生と日本人の女子高生を扱った作品)は数々の映画コンクールの賞を獲得したが、井筒監督の作品といったらそれぐらいしかないと私は思い込んでいた。
インタビューを聞いて意外に思ったり、感動したことがいくつかあった。
その1.彼は奈良県の出身で、進学校で名高い奈良高校を出ている。それを聞いただけでで「へぇー」と思った。私の友人の息子は奈良校が第一志望で受験したが、見事に落っこっている。
その2.高校を卒業してから、8ミリや35ミリで低単価の短編を撮っていたが、突然マンガを映画化する話が来た。
それまでマンガを読んだことのない彼が、「みゆき」という映画を撮ることになった。
考えがまとまらない。どう切り取っていけばいいのか分からない。集中できない日々が続いて、彼はついには精神科で抗うつ剤をもらうまでになった。しかし、彼は苦しみながらも「みゆき」を撮り終えた。
それ以後彼は、仮にいい映画が作れなくても、「前に進めた」「監督の仕事は前に進めること」「次のものを撮るためにこの仕事を終える」と考えるようになった。
その3.映画パッチギの制作にあたっても監督の悩みは続く。
偏見と差別。こういう映画をどこまで世間は許すのか? 在日高校生を主人公として取り上げたが、民族とは何か、民族共通の絆とは何なのか、どこまでが民族かなどに迷いながら撮影に向かった。
その4.映像を目指す若者へのメッセージ
今は簡単に映画が撮れる。携帯でも撮れる。ただ、なめてはいかんのは、「映像の科学」ということだ。レンズの選び方とか、こうやったらこういうふうに写るんだとか、照明はこういうふうに当てるとこうなるんだとか、あるいは、演技はこういうふうにしないとリアルに見えないとか。
今デジタルで3原色をすぐ再現できるが、きめの細やかさなどではデジタルはまだまだだ。デジタルは粗い砂みたいなものだ。
やっぱりちゃんとデジタルの工学を勉強して、簡単にカメラを動かしてはならないとか、なぜここはロングショットでしかダメなんだとか、そういうことも含めて勉強してほしい。どうすれば説得力を持つものになるか、映画らしきものになるのか、そこを勉強してほしい。
その5.「いじめ」について
昔はそんないじめなんてなかった。時代というより、環境が大きく関係していると思う。人を見て、自分を見てというその世界がうまく行かなくなってきた。みんな自分しか見なくなって、自分じゃないもの、違和感のある者を排除しようとする。社会からいなくなればいいんだと、あるいは消してしまいたいと、そういう方向に動いていっている。
その5.「若者へのメッセージを」と言われて
豊かな社会になったと言われているが、実はこんな不幸な社会はないと思う。物が豊かになって便利になったのに、なんだか不幸になったと思っている。「私、幸せだわ」って思っている人がどれだけいるのか。不幸だという気持ちを噛みしめて、どういうところが不幸なのかをもう一回自己分析してほしい。
映画でも小説でも何でもいいから、ちゃんと見たり聞いたりして、大人が言うことをそんなに避けないで聞いたほうがいい。一番いいのはいい先輩を探して、いい芸術に触れること、それが自分よがりにならないことだ。
もっともっと社会をたくさん見て、荒野の中に一人立っているんだという、そういう孤独を楽しみに変えてほしい。
仲間がいないと生きていけないとか、ラインで30人とつながっているから大丈夫だとか、そういうことじゃない。自分はしょせん孤独なんだってことを噛みしめて、そのうえで、もっともっと他者と接していこうとなっていってほしいと思う。