107)戦中派か戦後派か

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 高2の孫娘からメールが来た。学校で「探求の時間」というのがあり、そこで「祖父母の人生をインタビューして気になったこと」、また、「それとその頃の時代背景の関連性を探る」というテーマを取り上げたいという内容だった。

 私はひとまずの返事として、「ヤーバは昭和17年生まれで、戦争のことや、戦後の苦しかったことはほとんど覚えていない。それでもよかったら、何でも聞いてね」と返事しておいた。

 姉は私より9歳と5歳上なのでいくらかは覚えているようだが、私は元々記憶力が悪いのもあって、ぽつんぽつんと断片的に当時の景色を覚えているという程度だ。

  一つの記憶は、家の近所に空き地があり、子供達はそこで遊ぶことが多かったが、ある日の夕方遊んでいたら、突然頭上の電線がめらめらと燃え始めたことだ。火を噴いて電線が燃え上がっていた光景だけ覚えている。焼夷弾が落ちてきて、電線に当たったのだろう。

 その空き地で遊んでいたのか、母か姉に背負われて見たのか、そこのところはうろ覚えである。

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 もう一つの記憶は、警報が鳴ったのだろう。母が電球を消して、子供達に押し入れに入るように言った。母と姉妹全員で押し入れに入ったのを覚えている。

戦後の食糧事情については記憶がない。ひもじい思いをした記憶もなく、たぶん大きな鍋に野菜やイモのごった煮が続いたと思うが、特に覚えていない。

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 我が家も他の家庭と同じく子供が多く、私の下に弟が2人いた。しかし、下の子は1歳半、上の子は3歳で死んだ。どちらも肺炎で、父母の嘆きは、「ペニシリンが買えたら、助かっていたのに...」であった。ペニシリンが高かったために買えなかったのである。

 下の子が亡くなったとき、私はたぶん4歳位であったが、玄関前にござを敷いてお人形さんごっこをしていた。姉達といっしょであった。一番上の姉が家の中から出てきて、「お母ちゃんが泣いてる」と言った。そして、「トシオが死んだから」と付け加えた。姉の出てきた家の奥のほうは真っ暗で何も見えなかった。母の姿も見えなかった。でも、その真っ暗さだけはよく覚えている。

 

 私達のような昭和17年ごろに生まれた人間は、戦後派と呼ぶのであろうか。それとも実質は戦争中に生まれたから、戦中派とよぶのであろうか。

国語辞書によると、戦中派とは「第二次大戦の間に青年時代を送った世代」とあるので、戦争中に幼少期であった私達は戦中派とは言えない。

 一方、戦後派は「第二次大戦後に育った人々」とあるので、私達は、生まれたのは戦争中ではあるが、戦後派に組み込まれるのかもしれない。

 

 昭和21,22年ごろに生まれた団塊の世代の人々は正真正銘の戦後派であるので、昭和17年生まれはどこか曖昧でうしろめたい。

 

 姉達は親戚の住む京都や福岡に疎開したそうであるが、私は小さかったせいで、どこにも行かなかった。

 5歳ぐらいになると、一人前に幼稚園にも行かせてもらえた。ただ、今でいう習い事や稽古事は全くやらなかった。というより、そういうものをやるという考えすら我が家にはなかった。たぶん普通の庶民暮らしの人間にとってはそれが普通だったのであろう。

 小学4年生の時、クラスに2人ピアノを習っている女子がいたが、私には特別の存在、お嬢さんとでもいうべき存在だったように思えた。

学校は人数が多かった。給食の時もあったが、弁当の時も多かった。白いご飯に茶色のゴボ天(ゴボウのてんぷら)が2本並んでいるといような弁当だった。その形や色を見て、いたずら男子が「ちんちんブラブラ、ブーラブラ!」と言ってからかっていた。

 給食は最初は粉ミルクに茶色い焦げたような粉が入った、いわゆるコーヒー牛乳の時が多かった。

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