当ブログ「190) 町田康①わからんけど、わかる」で金子みすゞの詩を紹介したら、彼女の詩が好きだという方々が何人かいた。今回は、26歳で自殺したという金子みすゞの生涯をたどってみたい。1995年放映の「NHKスペシャル「こころの王国」童謡詩人 金子みすゞの世界」に沿って、まとめてみた。
金子みすゞの故郷、仙崎(山口県長門市)は古くから漁業の町として栄えた。父金子庄之助は仙崎湾で渡海船の仕事をしていた。
明治38年父庄之助は渡海船の仕事をやめた。みすゞ一家は海辺の間借りから仙崎の商店街に移って、「金子文芸堂」という小さな本屋を始めた。
翌39年中国大陸に赴任していた庄之助が何者かに襲われ、死亡した。
上山松蔵・フジ夫人を迎えて、仙崎での葬儀が行われた。当主を失った金子家では、生まれたばかりの弟の正祐(まさすけ)を、子どものいない上山松蔵・フジ夫婦の元へ養子に出すことにした。フジはみすゞの母ミチの妹であった。
みすゞの母ミチは近所の人の縫物を引き受けて家計を支えた。
みすゞの話し相手になってくれたのは祖母であった。祖母の話してくれる昔話や浄瑠璃からみすゞは影響を受けた。
大正5年、みすゞは近くの大津女子高等学校に入学した。成績は一番だったが、友達と付き合うよりは一人でいることが好きな娘であった。大正7年高等女学校3年の時、おばフジが治療の甲斐なく、死んだ。
正祐が養子であることは両家の秘密であった。正祐はみすゞを長年いとこだと思ってきた。
妻フジを亡くした上山松蔵とみすゞの母ミチが結婚することになった。それを機に下関商業学校生であった正祐が春休みや夏休みに、しばしば仙崎に遊びに来るようになった。
正祐は音楽や文学に興味を抱く多感な少年であった。みすゞがたくさんの本を読んでいて、思いもよらぬ新鮮な感覚を持っていることに正祐は心を開いた。
大正12年、みすゞは兄健介が結婚したため、家を出て下関で働くようになった。
下関はみすゞにとって大都会であった。正祐が本格的に作曲の仕事をしているのにも驚かされた。
大正レベラリズムの鐘は下関にも吹いていた。
作曲をしている正祐の影響で、童謡に興味を持ち始めたみすゞは、ある日西條八十の童謡に出会った。
「これなら、こんな詩なら私の心の中にもある。私にも書ける。書いてみたい。」
みすゞの子どものころの感性が一挙に呼び覚まされた。西條八十が選者をつとめる童謡に投稿し、入選した。
「見て。私の童謡入選したんよ。金子みすゞ。これ、私なんよ。」
「いい名前だね。」
みすゞの童謡は次々に入選していった。みすゞはまたたくまに全国の投稿仲間の星となった。
みすゞに刺激されて正祐も投稿するようになり、大正8年には北原白秋に付けた曲が入選した。二人は文学や音楽の話に熱中するようになっていった。
しかし、姉弟であるみすゞと正祐が親しくなっていくことに、松蔵夫婦は懸念を抱いた。みすゞを速く結婚させようと考えた。
松蔵がみすゞの相手に考えたのは、番頭の山本であった。10代の頃心中事件を起こしたことのある男だが、商売熱心で、やり手の美男子であった。店を継ぐ気のない正祐の代わりに、松蔵は山本に店を任せることにした。
大正15年2月みすゞは結婚した。
惹かれ合っていたみすゞと正祐は、実の姉弟であることを理解せねばならなかった。
みすゞは別れ際に正祐にノートを渡した。ノートには300点ほどの詩が記されていた。
みすゞの童謡のほとんどは仙崎の自然や生活から取られていた。みすゞにとって自然は、単なる鑑賞ではなく、空想と想像の世界への入口であった。
みすゞはまた好んで日没の時間を詠った。人恋しさと物悲しさの漂う夕ぐれの時、みすゞはすでに子供の時から生きることの「もの悲しさ」を感じ取っていたのかもしれない。
何よりみすゞらしい童謡は、お魚などに見られるような、貧しいものや弱いもの、罪のないもの、役に立たないもの、忘れ去られるもの、黙って自分の勤めを果たしているもの、そして、嫌われる者に対してまで注がれる優しい思いやりの詩であった。
他人への思いが溢れるほどになっても口にできぬみすゞ。人一倍他人への思いやりがあっても人づきあいが下手なみすゞ。それを理解できるのは、今や正祐だけであった。
「テルちゃんは天才だ。テルちゃんのこの限りない優しさは、どんなところから生まれてくるんだろう。」 *「「テル」はみすゞの実の名」
金子みすゞのこうした感性がはぐくまれた半生には、仙崎一帯の精神風土がある。漁業を生業としている仙崎では、殺生をしても念仏を唱えれば浄土に行けるという浄土週や浄土真宗が古くから信仰されてきた。こうした仙崎の精神風土がみすゞの生来の感性をさらに強く助長していったのであろう。
みすゞの夫は仕事に打ち込んだが、正祐との間に険悪な空気が流れた。ついに正祐は家を出た。うろたえた松蔵は山本を強く叱責した。山本は芸者遊びを始める。見かねた松蔵は山本の解雇を決めた。
みすゞが夫に付いて家を出るか、そのまま家に残るか。家に残ることは夫との離婚を意味した。
みすゞは妊娠していた。離婚の話はみすゞの妊娠で立ち消えになった。
大正15年11月長女ふさえが誕生した。生活は急速に苦しくなったが、子どもはみすゞにとって救いであった。しかし、育児にかまけて、みすゞの詩作はおろそかになっていった。
正祐はみすゞに手紙を書いて、詩作を続けるよう励ました。
正祐に励まされて、みすゞは再びペンを執るようになった。投稿仲間とのやりとりも再開した。
あるがままの現実を受け入れ、愛するものすべてと生きる喜びを詠ったみすゞ。金子みすゞの新たな世界であった。
しかし、みすゞを新たな不運が襲った。淋病を夫からうつされたのである。さらに、夫はみすゞに死に等しい宣告を下した。
「お前はもう詩を書くな。手紙のやり取りもするな。わかったなあ!」
みすゞがなぜ素直に夫の命令に従ったのかはわからない。
みすゞは新しく童謡を作ることをやめ、それまで書き溜めていた童謡を3冊の手帳に清書することに没頭し始める。
昭和4年、3冊の手帳は西條八十、もう一組の3冊の手帳が正祐に送られた。
手帳の最後には「明日よりは何を書こうぞ さびしさよ」と記されていた。
みすゞはついに夫と別居することになり、観音崎町に娘と移り住んだ。2月正式に離婚となった。
夫は娘を返すよう強く迫ってきた。みすゞは娘とともに実家に身を寄せた。
みすゞの病状は悪化した。
3月9日夫が娘を引き取りに来るという前日、みすゞは亀山八幡宮の下にあった三好写真館に出かけた。最後の写真を撮るためであった。
病に侵され、詩作を禁じられ、離婚され、そして今また最愛の娘を奪われようとしているみすゞ・・・。
私がさびしいときに、
よその人は知らないの。
私がさびしいときに、
お友だちは笑ふの。
私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、
佛(ほとけ)さまはさびしいの。
「私がさびしいときに、佛さまはさびしい」。みすゞはさびしさを紛らわすのではなく、また、さびしさから逃げるのでもなく、佛もまた自分のさびしさを共有してくれているのだと感じることで、自らを癒し、すべてを受け入れていた。
その夜みすゞは娘を風呂に入れた。自分の病気がうつらないように、みすゞは娘だけを浴槽に入れていた。
昭和5年3月10日金子みすゞは享年26歳で永眠した。大量の睡眠薬による自殺であった。
みすゞが眠る遍照寺
みすゞ記念館