AOTS(海外技術者研修協会)に入社して3年目にタイに留学することが決まった。目的はタイ語の習得と、タイでの日本語教育であった。
(アポロ11号が月面着陸に成功した年で、バンコクの宿舎でテレビ中継を見た記憶がある。今から考えるとそれほど昔の事柄であった。)
バンコクのドンムアン空港に下り立ったときには、暑いというより痛いという感じがした。日光の熱量が多いので、半袖から出ている腕がじりじりと痛かったのを今でもはっきり覚えている。
タイでは、チュラロンコーン大学の文学部で、そして、のちに法学部で日本語を教えた。文学部では日本の文部省派遣のY先生(当時大阪外大タイ語学科の教授)が日本語を担当しておられた。そして、私はY先生の授業のお手伝いをさせてもらうことになった。
そのころのタイは、表面的にはタイ人支配という形をとっていた。国会議員もタイ人で占められていたし、チュラロンコーン大学も中国人の教授はほとんどいなかった。中国語は正式の学科としては認められないので、その代わりに日本語学科が設けられ、日本語・日本文化が教えられているということであった。しかし、文学部の学生はほとんどが華僑の子女で占められていた。経済的には華僑が実権を握っているという状況だった。
文学部ではもっぱらドリル専門だったが、3か月ほど経ったとき、法学部で日本語を第2外国語で教えることが決まり、そこで日本語を教えることになった。法学部では日本語教師は自分一人なので、授業計画も自分一人でできたし、学生との接触も深まっていったように思う。
ほんの数ヶ月であったが、充実した期間を過ごすことができた。
学期修了の発表として、日本語劇をすることになった。演題は「喋々夫人」。私が学生に「喋々夫人」のストーリーを話し、それに基づいて学生たちがシナリオを作った。
発表当日までは、学生たちは「喋々夫人」のストーリーに沿ったシナリオで練習していたのだが、発表当日にはストーリーが大幅に変更されていた。
ピンカートンが蝶々さんに聞く。
「何が食べたいですか。」
蝶々さんが答える。
「ハンバーガー!!」
ピンカートンがアメリカへ帰ることになった。蝶々さんは浴衣の袖で涙をぬぐいながら、「ピーカートン、行かないで。」と言うはずだった。ところが、蝶々さんの口から出てきたのは、
「ヤンキー、ゴーホーム!!」
学生たちは授業では、非常にまじめで、従順で、大人しい人たちであった。私は大笑いをしながら、若い彼らのユーモアとエネルギーに圧倒されていた。(付け加えるが、正式の着物がないので、蝶々さんは私が持って来ていた浴衣を着ていた。)
当時は、タイの反日感情が潜行していた時代で、私はタイには1年しかいなかったのだが、帰国後、日章旗を燃やしたりする反日運動が起こり始めた。