35)外国語が好きになるということ

私は、外国語が好きになるということは、その国の人が好きになるということだと思っている。その外国語が好きだということはその国の人達が好きだということではないだろうか。

こう思うに至ったのには二つのことが関係している。

一つは友人の経験である。

友人TはPという外国語が好きで、外国語大学で専門に学んでいた。

3年のとき、もともと優秀だったのもあってP国に留学することになった。

好きだったP語であるから、TはP国へ来てからもどんどん上達していった。

しかし、1年が経ったころ、彼女はP語に対する学習意欲を失い出した。

P国はそのころは海外からの留学生が少なかった。また、日本からの女子学生ということでTはいろいろの人から可愛がられた。

学生仲間でも人気があった。

学校の友人たちは、彼女が寂しくならないように、毎日のように彼女の部屋を訪ねた。

部屋に上がり込んで、長時間話をすることが多くなった。

最初のうちはTもそれをうれしく思ったが、友人たちは部屋の中にどんどん入り込んでくるようになった。夜遅くまで帰らない、毎日ご飯を食べて帰る、冷蔵庫を許可なく開ける、食料を黙って食べる、飲み物を飲む・・・。

Tは友達のけじめのない親しさにだんだん疲れ始めた。

彼女たちは親切でやってくれるのだけど、自分の生活の中にどんどん入り込んできて、遠慮というものがなかった。

しかし、Tはそのことに対して、友人に抗議したり、注文を付けたりすることはなかった。

そのうち、Tは大好きだったP語を学ぶのがだんだん億劫になってきた。P語に対してだんだん興味を失っていくのを感じ始めた。

そして、TはP語の授業に出るのをさぼるようになっていった。

彼女が突然留学を中止して帰国したいと言い出したのは、半年後であった。

私はその話を聞いて、「そうなんだな。その国の人が嫌いだったら、その国の言葉を好きになれるはずはないもの。」と思った。

彼女が意志を強く持って、「今日は来ないでほしい」「今日はこれで帰ってください」と言えればいいのかもしれない。

しかし、たいていの人は相手に対して気遣いをして、強い言葉は発しない。ましてや、相手の気持ちを大切にする日本人にはなかなかできることではない。

私もアジア語のU語を勉強していたが、そして、その勉強は2年ほど続いたが、その国の人々がなかなか好きになれず、自分自身の持続性のなさも手伝って、やめてしましまった経験がある。

外国人が日本語を勉強するのもこれと同じで、もし彼らが日本人が嫌いだったら、日本語の勉強をやめてしまうだろう。

就職のためとか仕事のためとかいう理由で、勉強を、またその外国語の使用を続けなければならない人もいるだろうが、それはある意味で不幸なことかもしれない。