15)名古屋時代(3)

 前回は名古屋大学のCMJという初級日本語教科書についてお話した。AOTSで、文型中心に日本語を教え、文型中心の教科書作りに関わった私にとっては、CMJが文型ではなく、文の構造を教えるというところが、驚かされたところであった。

 当時名古屋大学の非常勤もしていた私は、CMJの作成にほんの少しですが、関わることができた。CMJ作成では、ドリルの一部と本文(会話文)の漢字選定を担当しただけであるが、他の先生から「hattoritamoさんの作ったドリルは、やさしい単語を使った、わかりやすい素直な練習問題だ」と言われた。

AOTSの教科書作りで、最初は柿だの梨だのいちごだの、あまり使わない単語を取り上げていた私でったが、その頃には、だんだんやさしくてわかりやすい、基本的な練習問題を作るようになっていたようだ。たぶん10年以上が過ぎて、良い練習問題というのは、凝りすぎるものではなく、学習者にすっと入っていけるような自然なやさしいものが良いということが、だんだん身に付いてきていたのだろうと思う。

 CMJで関わった漢字の選択というのは、本文の中のどの語を漢字にし、どの語をしないかという選定の仕事であった。教師としては、たくさん教えたいという思いもあって、あれもこれも漢字にしたいと思うのだが、水谷先生から「紙面が真っ黒になると、学生も勉強したくなくなる」と言われた。

つまり、教科書の本文が、漢字が多くて黒ぐろしていると、難しそうに見えて、学習者はやる気を失うということなのだが、そのときはじめて、漢字を選ぶのも、そういう「見た目」からも考えなければならないということを学んだ。

 名古屋大学では、その頃、大坪一夫先生を中心に、日本語学習のためのコンピュータ教材の開発が、進められていた。非常勤講師の若い女性の先生方が、動詞のformの練習や、助詞の穴埋め問題などの作成に、コンピュータの本と首っ引きで取り組んでおられた。

今、多くの大学でコンピュータによる日本語教育がなされているが、その先駆けがちょうど1975年、今から45年ほど前だったわけだ。

 そして、以前、概観したように、この時代は、形の上ではオーディオリンガルメソッドが続いていたけれども、それだけには飽き足らず、文型ではなく文の構造を示していこうという動き、そして、水谷先生のIMJに見られるように自然な会話を導入しようという動きが見られた時代と言えるであろう。

 コミュニカティブアプローチという言葉が、日本語教育に聞こえ始めてきたのもこのころであった。