13)名古屋時代

 1970年にタイから帰国した私は、新しく設立されたAOTS4番目のセンター、中部研修センター(CKC)の日本語主任として、名古屋に赴任することになった。

 名古屋インターチェンジのすぐそばの松林を抱くセンターは、中庭も広く手入れが届いていて、モダンな建物であった。それは、名古屋の地下鉄東山線星ヶ丘駅までだったのが藤が丘駅まで延長されたのと時を同じくしている。(現在は中部研修センターは豊田市に移転している。)

 CKCへ移って、私自身も、結婚、そして出産を経験した。産休をとって職場に復帰したものの、育児と仕事の両立ができず、1971年3月末で研修協会を辞めることになった。

 長男が3歳になったころ、また日本語教育に関わり始めたが、AOTSではなく、私立の南山大学名古屋学院大学、国立の名古屋大学などでお世話になった。

 まず最初に、南山大学留学生別科で非常勤講師として、日本語教育に当たることになった。南山大学の伴紀子先生のご尽力によるものであった。

伴先生には研修生のLL(ランゲージラボ)の指導に関西研修センターに来ていただいていたことがあり、それ以来のお付き合いをさせていただいている。

伴先生は日本語教育に非常に熱心で、名古屋地区に「日本語教育研究会」を創設された中心人物で、彼女の日本語教育に対する凛とした姿勢は、現在も少しも変わっていない。

 南山大学ではいくつかの貴重なというか、手痛い経験をした。一つは、私の期末試験の問題について学生が、私にではなく、主任の先生に直接直訴したことである。

 私はそのころ上級のクラスを担当していたが、期末試験の範囲をアナウンスするときに、試験問題にはいくつかの単語の意味をやさしい日本語で説明してもらうといったことについて、学生から不満があった。学生の言い分は「単語を使って文を作るのならわかるが、ある単語の意味を日本語で説明し直すのは試験問題として難しすぎる、不適切だ」という訴えであった。

 私は授業では、パラフレーズ化(言い換え)をよくさせていたので、学生から不満が出るなどと夢にも思わなかった。私はパラフレーズ化の重要性を主張したが、結果的には問題数を大幅に減らした。

今考えると、学習者にとってその単語が使えるということが最大の学習目標であるなら、文作りに切り換えるか、パラフレーズでも選択肢を与えるなどの工夫が必要だということがわかる。

 しかし、教師の試験問題について、その先生を通り越して上の先生に訴えるなど、私には考えられない経験であった。

 たぶん学生も試験の成績が奨学金の受給に大きく関わってくることもあり、必死だったのかもしれない。

 

もう一つの経験は、クラスによく遅刻をしてくる一人のアメリカの学生のことである。  その日も授業が始まってだいぶ経ってから、その学生が現れた。私は彼に、「あなたが遅刻すると、他の学生にも迷惑がかかるから、遅刻しないように。」と注意した。みんなの前で、少しきつめに言ったような記憶がある。

その日から、彼は私の授業に出てこなくなった。ちゃんと学校には来ているのに、ロビーとか読書室にいて、授業に顔を出さないのだ。

私は彼とじっくり話さなければと思い、別室で彼と二人で話し合いを持った。

彼は「僕がいるとみんなに迷惑をかけるから、授業に出ない。」と言った。  私は遅刻することが授業の支障をきたすのだから、遅刻をしないようにして、今までどおり授業に出るように一生懸命話した。

 二人きりで、じっくり話したことが良かったようで、次の日から彼は遅刻をせずに現れるようになった。

いくら学生に非があっても、また、横柄な態度をとっている学生でも、みんなの前で叱ることは相手を傷つけるということを、私はそこで学んだ。