12)書くことと私

 AOTSに入社して1,2年経ったころ、パキスタンの研修生が「自分は占いができる。パキスタンでは占い師でもあった。」

と言って、(遊びに)KKC職員の手相を見てくれていた。若い職員は興味津々であった。私もその一人だった。

 ある日、彼は私の手のひらを見て、「Surprisingly, you have a writing talent.」と言った。

私が「実際は本なんか書いていないし・・・。」と言うと、彼は即座に「書く訓練をしていないだけだ。」と返答した。(「Surprisinglyサプライジングリ」とは「驚いたことに」というほどの意味である。)

 

「えぇっ、私に書く才能がある?」

 

 この「Surprisingly」がその後の私の一生にずっと付いて回った。私は心のどこかで、「私には書く才能があるのだ、私は書ける人なのだ。」と思うようになった。事実、昔から話すことよりは書くことのほうが好きだったかもしれない。

 だんだん彼の言葉が自分の生きる上での励ましにさえなっていった。

しかし、書くことは生易しいことではなかった。小説は言うに及ばず、エッセーですらそうであった。2度ほどカルチャーセンターの「小説の書き方講座」に通ったこともある。

 1人のご婦人の先生はご老体で、細かいことは若い助手にやらせる。全くありがたみのない授業で、3か月ほどのコースが終わると、私はすぐやめてしまった。

また別のコースでは、男性の、これも年寄りの先生の講義があって、その先生は、皆の書いた小さな小説まがいのものにコメントをしてくれた。私はタイに滞在したときの建築技師との淡い思い出を書いたが、先生は「この小説の意味がわからない。この小説で言いたいことは何か。この小説の目的は何か。」と、私の作品を問題にしなかった。

 

 最近、芥川賞を受賞したT氏が『文藝春秋』に載せていた受賞の挨拶を読んだ。そこに書かれていたことは、私にとっては衝撃的であった。

 彼は、小説家になるための必須条件として、「読書量」と「経験」を挙げている。大量のフィクション、ノンフィクションに接し、それを味わい消化してこそ、人は人に提供できる物語を作ることができる。その人の読書量が物語やエンターテイメントを書く力を育てる。

また、自分が実際にやってみる、多くの豊富な経験こそが、人を納得させ、感動させるものを書かせる力となる。

 T氏は、自らの経験を積むために、浪人生活をしたり、大学4年生を繰り返したりしたという。

 

 私はT氏のコラムを読んで、打ちのめされてしまった。私にはそのような読書量も経験もない。私はただ人生を70数年、ていねいに生きてきただけだ。そこでのいろいろな経験は平凡で、人並み程度である。

読書量は人並みか人並み以下、経験も人並みか人並み以下の自分に、人を感動させる作品や一文が書けるはずがない。

 

 また、最近、腰痛がひどくなってきていることを考えると、書くことなどやらないほうがいいに違いない。

 「あきらめろ、あきらめろ!」

そう思ってあきらめ始めると、「Surprisingly・・・」が耳元に聞こえてくるのである。

 「あなたには書く力がある。」

 

 こうやって今まで、何年も迷っている私である。