11) 新米日本語講師時代(4)

    私がKKCに就職した当時は、前にもお話ししたようにAOTSの日本語教育は、東京では東京外大、大阪では大阪外大(現在の大阪大学)の先生方にお手伝いいただいていた。KKCにおける日本語教育の中心は大阪外大の寺村秀夫先生であった。

    KKCでは、その当時、いろいろな分野の先生方の講演が行われ、京都大学の『文明の生態史観』で有名だった梅棹忠夫先生や、日本語文法学者で、『象は鼻が長い』で有名だった三上章先生の講演もあった。

    また、1月か2か月に1度の割合で、寺村秀夫先生の文法の講義もあった。外国語に興味のあった寺村先生は、私の大学時代の専攻であったビルマ語のことをしばしばお聞きになった。

ビルマ語には「どんどん歩く」の「どんどん」のようなオノマトペはあるの?「どんどん歩く」はビルマ語でどう言うんや。」というような質問が多かったと記憶している。

    寺村先生は、その当時、新進気鋭の言語学者だったが、私達にはよく次のようなことを言われた。

 

「日本語を教えることは、たとえば4、5年経てば、誰でも一応はうまくなる。君らより若い人が入ってきても、4、5年で同じ位になってしまう。教える一方で、いつも何かを発表していきなさい。いつも自分の研究のテーマを持って、どこかで発表するようにしなさい。」

 

    この言葉は、ずっと私の心の中に残っている。

 

「自分の研究テーマを持つこと、それを常に研究し続けること」

 

    教えることの上手な先生になる努力をするとともに、この寺村先生のことばを若い日本語教師にも贈りたいと思う。

 

    AOTSでは当時、月に1回『研修』という名の機関誌を発行していた。『研修』はAOTS内、および会員会社などに配られる機関誌であったが、その1頁に日本語講師の研究発表が掲載されることになった。たぶん、これは寺村秀夫先生の、AOTSの日本語講師に発表の場を設けさせるための提案ではなかったかと思うが、来日する技術研修生に関する記事の中に、日本語の文法や、誤用などについての硬い論文が載るのであるから、読む人とっては異質に感じられただろうと思う。

 『研修』に論文(論文といっても分析の浅いものであったが)が掲載されるようになって、寺村秀夫先生には論文の相談や助言をしていただくようになった。

 正直言って、私達自身は、まず何を書けばよいのかというところからわからなかったのであるから、先生もご指導は大変だったろうと思う。