5)自己紹介

    このあたりで少し自己紹介をさせていただこうと思う。ごくごく簡単に、大まかな流れを記す。

 私は大阪に生まれ、20代後半までそこで育った。子供時代、思春期、青春期を大阪で過ごしているので、自分の根っこは大阪人だと思ってきた。

   大阪が大好きだった。成人して、たまに新幹線で新大阪に降り立ったとき、「ああ、この匂い、この空気、これが私のルーツだ」と思った。あれはたこ焼きの匂いだったのかもしれない、551の豚まんの匂いだったのかもしれないが・・・。

   大阪ではAOTS(海外技術者研修協会)の職員になった。担当は技術研修生に対する日本語教育であった。AOTSではじめて日本語の教え方を学んだ。

 

 次に移り住んだ名古屋では、結婚、出産、退職、仕事への復帰など、さまざまなことがあった。

   名古屋はほどほどに大きく、ほどほどに小さい。100メートル道路が広々として、ゴミなどあまり落ちていない、きれいな町であった。地下鉄東山線が東に伸びて、藤が丘という駅ができた。大きな団地が造られた。新しい団地の前で、小坂明子がピアノを弾きながら、「あなたあなた…」と歌っていた。

   名古屋には13年いた。第2子出産の前後に2~3年専業主婦になったが、それ以外は細々ながら、ずっと日本語教育に携わっていた。

 

   次に移ったのは関東である。東京には家など買えないので、茨城県南部のM市に、ローンを組んで小さな家を買った。夫はM市から職場の北千住へ通った。

   私は筑波大学の大学院に通った。大阪、そして名古屋で培ってきた日本語教育の理論的なまとめがしたかったからである。修士課程修了のあと筑波大学留学生センターで、日本語教育の仕事を再開した。

 

   10年後、九州大学の先輩から九州へ来ないかという誘いがあり、迷ったものの、九大留学生センターで仕事を始めることになった。

単身赴任であった。

強いようで弱い私には、離れた土地での単身赴任は心身に負担があった。

2年後に東京大学留学生センターからの誘いがあり、関東に戻ることになるが、時を同じくしてガンを発病した。

送り出してくれる九大と受け入れの東大には、大層ご迷惑をかけた。

 

   東京大学では体力との戦いであった。着任前の約4か月半の入院生活は、私から思った以上の体力を奪っていた。

   東大では定年の1年前に、私は自ら退職の道を選んだ。

 

   退職してから約15年余が経つ。その間は非常勤講師や地域の教師養成講座等に携わるかたわら、日本語指導書、文法書の出版などに関わった。

   大阪での生活が30年近く、名古屋と関東での生活が40年以上になる。

だんだん大阪が恋しいとは思わなくなってきている。大阪弁も下手になったし、難波のおばちゃん気質も弱まってきている。

   関西人でもないし、関東人でもない。でも、言い換えれば、西の人のこともわかるし、東の人のこともわかるということではないか。幅の広い、ふところの深い人間でいたいと思う。