28)小学校の前に住んでいる

ブログ20)~27)では茨城時代の、特に筑波大学での日本語教科書の作成や、当時の日本語教育について描写した。年代的には1980年半ばから2003年あたりのことである。自身にとっては大学院を修了し、筑波大学の講師から助教授になった期間である。

 日本語教育を含めて言語教育では文法中心主義からコミュニカティブアプローチが台頭してきたころであった。

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名古屋から茨城に引っ越してきたとき、いくつかの住宅団地を回り、疲れ果てて、これが気に入らなかったら今回は名古屋に戻ろうと話し合っていたときに巡り合ったのが守谷市(当時守谷町)の三井住宅団地であった。販売期間が終了していて、数件の売れ残りがあった。小学校の真ん前の一軒と、住宅団地の奥の奥の集会所の横の一軒であった。その年の4月に長男は6年生に、長女は5年生になる。小学校の前はうるさいとされているが、自分達は昔から子供の声はあまり気にならなかった。むしろ彼らの元気な声に励まされることのほうが多かった。また、私達は次のように考えた。

新しい学校に転校することで緊張している2人の子供には、学校が家の真ん前にあるというのは利点になるにちがいない。この春休みに学校の校庭で遊べば、学校に慣れて、抵抗なくスムーズに入学できるのではないか。

 小学校の真ん前の家を選んだのは「当たり」だった。名古屋では「引っ越したくない。6年生は今の学校がいい。」と泣いていた息子も、そして、もともと人見知りの少なかった娘も、4月にはすっかりこの学校に馴染んでいた。

あまり迷いもせず、私達は学校の駐車場に入る北門が真ん前にあるほうの家を選んだ。

 あれから30数年になる。

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 悩みというほどではないが、見落としていたのは小学校への車の出入りの多さと、門の開閉の音の大きさである。

左右がコンクリートの支え(門)になって、間に鉄のレールがある。そのレールを、開け閉めのたびに鉄の扉がガラガラと音を立てて動く。

 長い期間にはいくつかの変遷があった。最初のころは夜も昼間の授業中も、鉄のレール門は開いたままだった。誰も触らなかった。夜は体育館を地域の活動に使っているので、9時半に利用者がレール門を閉めていくだけだった。

 2001年に池田小学校事件(死者8人、負傷者15人を出す部差別殺人事件)が発生して以来、全国のほとんどの学校が自校の門を閉めるようになった。

 閉めるとなると日本人は真面目なので、ことごとく門を閉める。

出入りする車は、先生方の車(この学校ではほとんどの先生が車に乗ってくる)、給食の車、ゴミ回収の車、父兄の車、教材会社の車・・・。それぞれの車には行きと帰りがある。開けると必ず閉めなければならない。1台に付き、開け閉め、行き帰りの最低4回はガラガラの音をさせる。給食運搬の車はパン専用車と総菜専用車2種類、したがって給食関係だけでも計8回ガラガラと音が鳴る。

 最初はあまり気にしなかった。しかし、だんだん音が気になり始めた。例えば、父兄の車が正門に入って(ガラガラ)、閉めた(ガラガラ)途端に別の父兄の車が来る。その車がまた開けて(ガラガラ)閉める(ガラガラ)。車が混む時間帯では10分おきぐらいににレールがガラガラ鳴る。

 何かのイベントがあると、たくさんの父兄の車が出入りするので、我が家の前の道は自動車がひっ切りなしに動き回る。(運動会などの大きなイベントのときはレール門は開けたままであるが。)

 学校でうるさいのは子供の声ではない。車の出入りであり、レール門のガラガラ音が一番である。

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 この30年に小学校で働く人々も変わった。最初のころは校長先生まで愛想がよく、「土日はどうぞ駐車場を使ってください、いいですよ、いいですよ」とおっしゃっていた。しかし、だんだん様子が変わってきた。

 我が家で外壁の塗り替えをせねばならなくなったとき、業者が出入りするため、玄関先の自宅の駐車場から車をどけなければならなかった。車の置き場所に迷った私は、ちょっとの間だけと思って車を学校に停めに行った。私としてはめったにあることではないし、短時間だから許してもらえると思い込んで、学校の駐車場に停めてしまった。

しばらくすると(すぐだった)家のチャイムがピンポンと鳴って、教務員の方がやってきた。そして、「自動車をどけてください」と言われた。

 私の停めたところがたまたま一人の先生の駐車場所であったらしい。

もちろんそんなところに停めにいった私が悪い。夫は恥ずかしいことだと言った。自分もそう思う。しかし、何年か前ならもうちょっと違った対応をとってくださったような気がしないでもない。