8)新米日本語講師時代

    日本語教育の黎明期に日本語教育に携わった者として、その当時に日本語教育について触れておきたいと思う。

   1966年当時は、AOTSには3つのセンター(東京研修センター、横浜研修センター、関西研修センター)があり、そこでは発展途上国からの技術研修生に対し、日本語教育を中心とした研修を行っていた。  

    当時関西研修センター(KKC)では、大阪外国語大学の(東京では東京外国語大学の)先生に来ていただいて、日本語の授業をお願いしていた。しかし、機関として専任の日本語講師を持ちたいという、たぶん、時代の要請でもあったのだろうが、1966年にはじめて日本語講師を公募した。(私自身はそのとき採用された3名のうちの1人であった。)

    AOTSは、5週間コース100時間で、技術研修生が自分の身の回りのことはある程度話せるようにするという目標をかかげていた。毎日、月から土曜日まで、通常は9時から12時までの3時間(週1日は午後も3時間日本語の授業があった)が日本語の勉強、午後は研修生の専門に合わせて、「生産技術」「日本の中小企業」などの講義や、工場見学などが計画されていた。  私達新米講師は日本語のクラスの授業を見学したり、教案を作ったり、補助的にドリルを教えたりした。

    KKCでは、その当時は当時の先生が作られた簡単な日本語の教科書を使っていたが、AOTSとしてきちんとした教科書を作ろうという話が出てきた。それが、『Practical Japanese Conversation』で、私たち新人は新教科書のドリルの問題を作るように指示された。