26)会話力と文法力を育てる(2)

コミュニカティブアプローチというのは、言語伝達能力を養成することを目標として、1970年初頭に誕生したアプローチである。

コミュニカティブアプローチの基本原則は、次のようである。

1)クラス活動では、今「何を」しているかを知っていなければならない。

2)言語の部分を学習するだけでなく全体にも目を向けなければならない。

3)コミュニケーションでは、伝達過程は言語形式と同じように重要である。

4)言語を学ぶには経験することが大切である。

5)学習者の犯す誤りは必ずしも誤りではない。

原則だけを聞いていると、もっともなことばかりに思われる。私はここでコミュニカティブアプローチがどうだこうだ、というつもりはないが、長年の経験を通して、コミュニカティブアプローチというアプローチは、語学の教授法として、たぶん、正しいアプローチだとは思っている。

「たぶん」という副詞が付くのは、もしかしたら、コミュニカティブアプローチ以上のアプローチがあるかもしれないという気持ちが、どうしても起こってくるからである。

コミュニカティブアプローチの標榜者の考え方の基盤は、「日本語そのものを教えることが日本語教育の目的ではない。日本語を使って何ができるかをさせることが目標だ」ということだ。

そして、決まって例に出てくるのは、料理を作るというレッスンである。

料理の作り方を説明しながら、例えば、「~てください」を挿入、練習する。

「ガスをつけてください」「肉を切って鍋に入れてください」などの依頼表現を実際の場面を通して、身をもって練習できるし、そうしてこそ、ことばは本当に身に付くのだと主張する。

私自身も本当にそうだと思う。しかし、いつも料理だけを作っているわけにはいかないのである。

理由を説明したり、報告したり、状況を話したりするためには、文の構造がつかめていて、自分で組み立てる能力が必要である。それは、どうやって、段階的に身に付けさせることができるのだろうか。

コミュニカティブアプローチについての理論や説明は、多々なされてきた。でも、理屈ではなくて、具体的に包括的に示されたものは、残念ながらほとんどなかったと言えよう。

コミュニカティブアプローチの原則、目標は正しいのだが、それを、言語教育としてどう具体的に組織化させるかが、コミュニケーションという概念が大きいだけに難しいのだと思う。

筑波大学の「SFJ」も、出来上がってみると決してコミュニカティブ一辺倒の教科書ではなかった。

会話もしっかりしているし、文法もしっかりしているテキストに仕上がった。

私達は、「SFJ」を説明するとき、決して「SFJ」はコミュニカティブアプローチのテキストだとは言わない。「SFJ」は言語能力と伝達能力のバランスのとれた日本語力を養成するテキストと言ってきた。

言語能力というのは、文法力と置き換えられるし、伝達能力というのは会話力と置き換えられるだろう。つまり、「SFJ」は文法能力と会話能力のバランスのとれた日本語力を養成するテキストというわけである。

コミュニカティブアプローチは一世を風靡したが、それだけを取り入れている日本語教育機関はないと思われるし、どの機関も、コミュニカティブアプローチの精神を取り入れながら、文法の重要性も取り入れているのが、実際の姿だと思われる。