これは先日友人のマンションへ行った時のことである。
友人は交通事故で入院していたが、1か月ほど前に退院し、家に戻ってきている。右足の骨折のため、まだ独力で立ち上がることができない。毎日の料理を作ることができず、ご主人が奥さんに教えてもらいながら、ぽちぽちと毎日作っているという。
ご主人、S先生は定年年齢はとうに過ぎていたが、研究を続けるということで、まだ大学に勤めていた。ガチガチの理系の教授である。
その日は日曜日で、S先生も在宅しておられた。
20畳ほどの居間の延長上に台所がある。S先生が日本茶を入れてくれた。お茶を入れながら、S先生が私に話しかけた。
「〇〇さん、料理の本は難しいですね。あんな難しいものはないですね」
私は最初、S先生が何を言おうとしているのかがつかめなかった。
「「塩、少々」って書いてあるけど、「少々」ってどのくらいなのですか?」
「「さっとゆでる」の「さっと」はどの程度ゆでるのですか?」
「「たっぷりゆでる」の「たっぷり」は何分?」
「「小さめに切る」の「小さめ」って何センチぐらいの大きさですか?」
「ああ、本当に料理の本は難しい。あんなに難しいものはないですよ」
奥さんが病気になってはじめて料理を始めたS先生は、まったく新米の料理人である。偉い先生であったので、家でも外でも料理や家事をすることはほとんどなかった。家事は、専業主婦の友人が一手に引き受けていた。
そんな中での、ご主人の素朴な疑問なのであろう。
料理を長くやっている主婦は、計量器で水何カップ、スプーンで醤油何ccなどと測ることはだんだん少なくなる。ねぎを切るのに物差しで、何センチと測るようなことはしない。もちろんレシピ通りに正確に測ったりしたほうがおいしくできる場合も多いが、主婦の多くは大まかに、経験と勘で味付けをすることが多い。経験と勘で「少々」が大体どのくらいで、「さっと」がどのような感じなのかが分かる。
S先生のような理系の人間の頭の中は、友人や私のような文系の頭の中とは正反対にできているにちがいない。
話は変わるが、私自身の息子も大学で地球物理学を学んだ理系の人間であった。
息子が大学に入学してアパートに引っ越した時、確か電話だったと思うが、アパートのことを知りたくて私が尋ねたことがある。
「アパートから駅までどのくらいかかるの?」
それに対して息子はなかなか返事ができなかった。
私は簡単に、「だいたい歩いて〇〇分くらい」程度の答えを期待していたのだが、息子は答えない。しばらくして息子は、「うーん、分からない」と言った。私は息子が返事をするのが面倒くさいのだと思った。
しかし、息子は次のようなことを言った。
「きちんと測ったことないから、分からない。・・・ 930メートルぐらいかなあ」
私は唖然とした。私はそんなに正確な答えを期待していなかった。アバウトに大体の距離を言ってくれればいいと思っていた。距離でなくても大体の所要時間を言ってくれればいいと思っていた。
私はそのとき悟った。理系の息子は「アバウトに言う」ということができないのだ。
S先生に言わせれば、アバウトな表現に満ち溢れた、分かりにくい典型が料理本というわけだ。
「一口大」の「一口」ってどのくらいの大きさ?
「五分ほどゆでる」の「ほど」は?
「食べやすい大さに乱切りする」の「食べやすい」ってどのくらい?
「小さめの乱切りにする」の「小さめ」、「余分な脂や皮を切り落とし」の「余分な」、「鶏肉をさっと炒めて」の「さっと」などなど、理系の人間にとっては料理本はあいまい表現だらけである。
料理本があいまいだらけだということを教えてくださったのは、S先生だ。そういえば、テレビの料理番組でもアバウトな表現に満ち満ちている。
時々理系の男性って本当に難しいと思うことがある。S先生は非常に興味深いことを教えてくださったけれど、私は理系の男性の細かさに、本当に面倒くさいと思うことがある。