215)年賀状雑感

             

 年賀状書きやその整理がおっくうになり、そろそろ「賀状じまい」をしようかという気持ちになる。

 今年いただいた年賀状に次のようなものがあった。

 

「私事ながら、卒寿を期に賀状の筆をおきたいと存じます。

長年のご厚情を深謝致します。」

 

 ご丁寧な「賀状じまい」のご挨拶である。年賀状をやめるには、このくらいの丁重さが必要なのであろう。一方で、次のようなものもあった。

 

「・・・(中略)「年賀状じまい」宣言をする方が年々多くなってまいりましたが、愚生は少なくともあと、3、4年は続けようと思っています。」

 

 この方は73歳。初めの卒寿の方とは状況が違って、むしろ年賀状の良さを認め、積極的にもう少し続けたいと考えておられるようだ。

 

 ともかく年賀状をやめる場合は、事前に何らかの合図を出すとか、きちんと挨拶してからのほうがよさそうである。

 また、挨拶の書き方も、「来年より年賀状、ご放念ください」とか、「来年から年賀状失礼いたします」程度では、簡単すぎて、失礼になるような気がしないでもない。

 

         

 私にも何十年も年賀状が続いている人がいる。職場での付き合い、小、中、高、大学での付き合い、地域での付き合い。お世話になったりなられたり、関係が深かったり浅かったり・・・。

 特にそれほど関係はなかったのに、ずっと続いている場合もある。「この人とはどんな関係だったかな?」と考え込んだりすることも時々ある。

 また、その当時は付き合いがあったり、お世話になったりして、お礼の意味もあって年賀状を出していたが、その関係もとっくに終わり、その後まったく付き合いがないのに、年賀状だけが続いている場合もある。

 

 また、そろそろ年賀状のやり取りをやめてもいいかなと思って、その年に出さなかったら、向こうから丁寧な賀状が届く。これはいけない、来年は出そうと思って、次の年に出すと、向こうから来なかったりする。

 

         

 昨年末は、実際のところ、そろそろ年賀状を出す相手を絞り込もうと真面目に考えた。形式的なやりとりの年賀状はやめ、本当に心がつながっている、出したい人にだけ出そうと決心した。厳選したのが30人であった。

 しかし、年が明けて元旦になると、出していない人20人ほどの人から年賀状が届いた。次の日は5人、次の日は4人。結局いつもと変わらず、合計70人ぐらいから来たことになる。

 いただいた方には返礼を書くのは礼儀だから、40人余りの人に書いた。お正月はハガキの準備や購入、整理、年賀状書きでオタオタしてしまった。

 

 やっぱり、やめるのなら、事前に(前の年に)予告しておくべきだったと反省している。

        

 

 出さなかった方から来た年賀状を見ていると、自分自身は形式的につながっていただけだと思っていたが、この何十年の間にはいろいろなことがあったなあ、よく付き合ってくださったなあという思いが強くなってくる。

 この、出そうか出すまいかの迷いの中で、出し続けたというプロセス(過程)、これこそが長年の付き合いそのものなのだと思えさえした。

 

 今年出さなかったために、たぶん届かなかった何人かの方は、来年の年賀状を控えるだろう。しかし、私は出さなかったというお詫びの気持ちで、次回は出すだろう。

こうやって、年賀状の実際の数は少しずつ減りながら、しかし、今しばらくやりとりが続いていくのだろう。まるでシーソーのように。

 

         イラスト シーソー かわいい に対する画像結果  

      

 某新聞1月6日の「ビジネス川柳」に次のようなものがあった。

 

年賀状 貰った数だけ 返事書く  (東京都・慶次郎)

 

   選者の感想批評には「皆がそう考えている昨今」とあった。

全くだ。私ももうそうなり始めている。もらったから出す・・・。年賀状はそうなっていくご時世なのだろうか?