105)川の流れ

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 勤めてもいないのに日曜日の夜が憂鬱になる。明日からまた平日が始まるのと思うと心が重い。一週間のうちでは、木曜日あたりから金曜日の夜が一番うれしい。

 

「ああ、もうすぐ週末だ。日曜日が来る。休みが始まる。」

 

 でも、すぐに日曜日の夜が来る。明日からまた月曜日が始まる。

 

 ずっと前から時間というものが、流れ放しで、とどまらないことが不思議だった。どうして止めてほしいと思うときに時間は止まらないのだろう。1分でも2分でもいいから、時間が止まってくれたらと思うことがたびたびあった。

楽しみな金曜日が来るのはうれしいが、金曜日になったら、すぐに日曜日の夜が来る。

なぜ金、土、日曜日は、せめてもう少しスピードを落として、ゆっくり過ぎていってくれないのか。

 即物主義者(具体的な事例を見ないと理解できない、直接触ってみないと納得しない人間)的なところのある私は、観念的思考に欠けているのかもしれない。太陽の動きや、時計の動きなどだけから時間の流れを悟ることができなかった。

 

 なぜ時間は止まらないのか、なぜ止まってくれないのかということばかり考えてきたように思う。

 ところが最近「時間が流れる」ということが、こういうことなのかなと思うようになってきた。

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 「時間の流れを川の流れと同じだと考えればいいのだ」と思うようになってきた。

 

  家のそばに川が流れているとする。窓を閉めると、川の音も聞こえないし、近くに川があることも分からなくなる。しかし、窓を開けると川が流れているのが見える。

 その川に何かを投げ入れてみよう。何でもよいが、その場で沈まない軽いものがいい。小箱でもいい。

 小箱を投げ入れると、投げた瞬間からそれは流れに乗って動き始める。小箱の流れは、基本的にはいつまでも続いていく。私が目を閉じても、窓を閉めても、小箱は川の流れに沿ってどんどん離れていく。

 この小箱の動きを起こしているのが川の流れなのだ。この川の流れというものが、時の流れとイコールなのだ。

 川は、川などのない山奥でも大都会の中でも、ただ見えないだけで、いつもどこかで流れている。自分には時間が見えないだけで、でも時間はいつもどこかで流れているのだ。

 

 私にはこのことが分からなかった。時の流れというものが分からなかった。

 

 時の流れが少し分かったことで、自分自身が変わったかというと、そこは微妙である。

  「ああ、そうか。小箱のように体ごと流れているのが人間だとしたら、人間ははかないものだなあ」というのが第一の実感である。

 

 しかし、もしそうなら、時間の流れに乗ってやろうじゃないかという気持ちもどこかに起きている。

 今までは無意識だったけれど、これからは時間を意識しながら、山あり谷ありの時間に乗っかって、景色を眺めてやろうじゃないかという気持ちにもなっている。

 流れを意識したほうが、凸凹にも、振動にも、動きにも気がつくし、案外楽しいかもしれないという予感もある。

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 そういえば、「川の流れのように」という歌が何年か前に大ヒットした。作詞者は人生を川の流れにたとえているのであるが、作詞者の考えの中には「人生そのもの=時そのもの=川の流れ」という考えがあるのかもしれない。

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