85)ほむほむのふむふむ

     

ラジオ深夜便、朝4時5分からの「明日へのことば」で、短歌を紹介する「ほむほむのふむふむ」を聞いた。「ほむほむ」というのは、番組を主宰する歌人であり、エッセイストでもある穂村弘の愛称から名付けられた番組名である。まだ若い穂村氏のおっとりした、味わい深い解説と、女性ディレクターのてきぱきした番組運びが面白く、また、それは短歌入門番組にもなっている。

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この8月3日の放送で、夏の短歌として次の句が紹介された。

 

ラジオ体操の帰りにけんかして 

けんかし終えてまだ8時半

 

これは穂村氏自身の短歌ではなく一般人の句らしい。穂村氏は短歌について、作者は小学生か、また小学生時代のことを詠んだものだろうと説明した。インターネットで調べると、別の人が穂村氏と同じような説明をしていた。

私は「深夜便」は携帯ラジオを枕元に置いて聞いている。文字を読むのではなく耳からの音を聞くので、頭の中で想像を膨らませてしまう。この短歌を聞いたとき、そして穂村氏の説明を聞いたとき、私は、「いや、これは子供の作ったものではない。これは子供の時を詠ったものではない」と強く思った。

「ラジオ体操」という言葉が夏を思わせ、また、夏休みに集会場や広場に集まった子供時代を思い出させる。首からカードをぶら下げ、スタンプをもらいたいがために、眠いのを我慢して朝6時半前に起きた。「ラジオ体操の帰りにけんかして」と詠っているから、状況としては、学校の仲間と広場に集まってラジオ体操をしてから、何かしら言い合い(喧嘩)をしたというのだから、主人公(詠み手)が大人とは考えにくい。

しかし、ラジオを聞いていた私がはっと思ったのは、短歌の中の「まだ8時半」という表現である。「まだ8時半」というのは子供ではなく、老人が抱く感慨ではないだろうか。

仕事を持っている現役世代は、概して忙しい毎日を送っている。「まだ8時半だ」と思うことは少なく、「もう8時半だ」と思うことが多いはずだ。「もう8時半だ、急がなくては。」「もう8時半だ、帰らなくちゃ。」のように。

子供はどうだろう。職業人ほど忙しくはないだろうが、子供が時間の早いことを知って、「まだ8時半だ。まだ時間がある」などと、これからの「余裕のある、余った」時間に思いを馳せることは少ないのではないだろうか。

一方、老人は違う。老人の心には、どこかに「時間は早く流れていくものだ」「自分に残された時間は限られている」という諦観のようなものがある。用事が思いがけず早く終わったとき、また、夜中に目が覚めて時計を見たとき、また、もうとっくに8時半は過ぎてしまったと思い込んでいたときなどに、「いや、実はまだ8時半だったのだ」と気がつく。

たぶん「まだ8時半で良かったと」思うときも、「まだ8時半で、時間がありすぎて困るとき」もあるだろう。

時間に対して短歌に詠める(詠む)ほどの感慨を持つのは、少なくとも小学生ではないように思う。

 

日本語文法的に言えば、これは副詞「もう」と「まだ」の問題かもしれない。

 (1)A:あの映画、見た?

   B:うん、もう見ちゃったよ。

 (2)A:あの映画、見た?

   B:ううん、まだ見ていない。

 

「もう」と「まだ」は動詞や形容詞にかかっていく副詞だが、単に「すでに」や、「未だ(いまだ)」という時間の関係を表しているのではなく、人の気持ちや捉え方に大いに関係する。同じ8時半でも、急いでいる人には「もう8時半」であり、時間がある、特に持て余している人には「まだ8時半」である。

「ラジオ体操」の短歌の中の「まだ」には、「これから時間たっぷり時間がある」、言い過ぎかもしれないが、「ああ、これからの時間が長いなあ」という気持ちが含まれているのではないか。

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現役を辞した今の私は「時間がたっぷりある」ため、「まだ8時半」に自分の身を置き、自分の感慨で一方的に解釈しようとしたのかもしれないが・・・。