194)若人の短歌

 深夜便朝4時台の「ほむほむのふむふむ(短歌歌人穂村弘)」を聞いた。

        

 ゲストは、現代歌人の平岡直子さん。平岡さんは、1984年長野生まれ。2012年歌壇賞を受賞、歌集『短い髪も長い髪も、炎』で今年(2022)の現代歌人協会賞受賞、現在最も存在感のある歌人の1人と言われている。

        

 平岡さんが最初に短歌に出会ったのは、小学校に入るか入らない時、子供用の絵カードみたいな教材で出会った。本を読むのが好きだった。小さいころから一人でこつこつ作っていた。本格的には、早稲田短歌会(寺山修司、笹井雪乃)に入ってから。急激な短歌のブームに乗っかる。

 

 平岡直子さんの現在の心境は次のようである。

「短歌は短くてエモい。自分だけの言葉がほしい。自分のこの気持ちを、ニュアンスの違いのない状態で言語化したい、言語化されてほしいみたいな、そういう皆の欲求が高まっているのを感じる」。(エモい:何とも言い表せないステキな気持ちになった時に使う、特に若者の間で浸透している俗語)

 

 穂村氏は、「平岡さんの作品は深く届く」と評している。受賞作「短い髪も長い髪も炎」から、次の2作を選び、穂村氏の選評を加える。

 

  • 手をつなげば 一羽の鳥になることも 知らずに 冬の散歩だなんて 

        

穂村弘氏が選んだ理由:2人で冬の散歩をしている。それを俯瞰しているような感じで、どちらかが手を伸ばして手をつないでいっしょに歩けば、2人で1羽の鳥になるん

だという、この発想が素敵だなあと思う。)

             

  • 海沿いで 君と花火を待ちながら 生き延び方について話した 震災の翌年

      

(穂村:非常に情景が浮かぶ歌。「生き方」じゃなくて、「生き延び方」というところがこの歌の印象的なところかと思う。これが花火じゃなくて爆撃とか戦争の戦火みたいなものだったら、「生き延び方」っていうことは意味としてそのままの意味、生きるか死ぬかみたいな、そんな時代の2人であれば生き延び方としてナチュラルだが、花火というのはどうか?)

(穂村:しかし、これは、東日本大震災の次の年に作った歌で、実際に花火大会に行っている。まだ記憶が新しいから、今ここに津波が来たら、どうやって生き延びればいいんだろうみたいなことを、けっこうダイレクトに考えて、震災後の空気の中だったから、身近な危機みたいなものに皮膚がビリッとした瞬間があったのかもしれない。)

 

  • 三越のライオン見つけられなくて、悲しいだった悲しいだった

            

(穂村:「悲しいだった」は、小学校ではテストに「×」を付けられるような、間違いになる変則的表現であるが、この歌ではそこが魅力になっている。待ち合わせ場所として有名な場所が見つけられないというのが背景にあるから、悲しかった、悲しくなった。レトリックとしてわざと変な言葉にする時がある。しかし、これはすごくナチュラルに、すっと入ってくると思う。)

 

 「変な言葉、変則な表現」として、穂村氏は「悲しいだった」を取り上げた。そして、変則だが、変則であるがゆえに、悲しい気持ちが伝わってくると言った。

        

外国人が日本語を学ぶ時、「悲しいだった」のような言い方をすることが多い。「いい天気だった」「彼は親切だった」と言うのだから、「悲しい」も「悲しいだった」といっていいと思ってしまうようだ。「おいしいだった」「難しいだった」「おもしろいだった」などは外国人の典型的な誤用の一つである。(本来は「悲しかった、おいしかった、難しかった、おもしろかった」。)

 外国人がそのように言うと、私達は間違いとして指摘するけれど、そこには日本人に「おやっ」と思わせる、違和感から来る「味わい(哀愁)」のようなものがあるのではないかと穂村氏は指摘する。レトリック(表現の巧みさ)を重視する短歌だから、「悲しいだった」から味わいを感じるのかもしれない。

 

 同じく、文法的な間違いを用いて、レトリック的効果を狙ったものもある。

 

  • あまりにも夏 とても夜 一匹の小金虫が 洗濯を見ていた 

      

 

(穂村:破格のイレギュラーな日本語かな?「あまりにも夏」「とても夜」というところがいいですよね。普通にとても暑くて、深い夜だったという感じよりも、「あまりにも夏」「とても夜」というと、夏の臨場感が立ち上がってくる。

(平岡:この歌は、「雪船えまさん」の「とてもわたし、来ましたここへ」という上の句がとても好きで、マネしたいなあと思って作ったけど、自分ではマネがあまりうまく行かなかったなあっていうか、(中略)・・・)

 

 引き合いにだされた、雪船えまさんの短歌は次のようである。

 

「とても私。きましたここへ。とてもここへ。白い帽子を胸にふせ立つ」

 

 「とても」は次に続く形容詞や副詞、動詞を強調する副詞で、副詞であるために、「とても夜」「とてもわたし」「とてもここへ」のように「とても」の後ろに名詞は来ない。しかし、ルール違反をすることで、「夜」「わたし」「ここへ」を強く、哀愁深く表していると言える。