178)★ #日本語文法 ものがたり7★「語順」

 

            

 前回の「日本語ものがたり6」で、いくつかの語を組み合わせて文を作る「問題」がありましたが、いかがでしたか?

 何人かの方から「難しい!」とクレームが来ました。

 外国人ができる日本語の問題で、日本人ネイティブにはなぜ難しいのでしょう?

日本人は日本語が分かり過ぎるので、いろいろ考え過ぎちゃうのです。1文を読んだり聞いたりしただけで、いろいろの状況を思い浮かべることができるので、考え過ぎてしまうのです。

 

 「問題」の(6)も、日本人はいろいろの状況や可能性を考えるために、答えられなくなってしまうのです。

 

「問題」次の語を並び替えて、文を作ってください。

(6)おしゃべりした 3時 2時 1時間 友達

 

  →外国人:2時から3時まで1時間友達とおしゃべりした。

   日本人:①2時から3時まで1時間友達とおしゃべりした。

       ②友達と2時から3時まで1時間おしゃべりをした。

       ③2時から3時まで友達と1時間おしゃべりをした。

          

      

 

日本人が作った①~③はいずれも正解です。

そこで読者から質問がありました。「自分は①と②を作ったけれど、どちらが正しいのでしょうか?」

 

 結論から言うと、①②はいずれも正しく、正解です。文法的に構造の整った、意味の通じる文です。

 では、この2つの文はどこが違うのでしょうか?

 

 2つの文は、「2時から3時まで」と「友達と」の順序が違っていますね。つまり、①と②は語順が異なっている文ということになります。①では「2時から3時まで」が、②では「友達と」が先頭に来ています。

 

  ①2時から3時まで友達とおしゃべりした

  ②友達と2時から3時までおしゃべりをした。

 

 日本語では、基本的には語順はそれほど需要ではありません。文の最後に述語(動詞や形容詞、名詞+だ)が来ていれば、順序が少々違っていても意味が通じます。

 一方、英語は語順を重視する言語です。例えば “I love you.”は語順が決まっていて、「I(主語)がyou(目的語)を愛する」という意味になりますが、日本語では「私は あなたを 愛します」とも「あなたを 私は 愛します」とも言うことができます。

         

 しかし、より状況に合った自然な日本語文を作りたい場合は、日本語にも語順のルールがあります。それは、次のようです。

 

*日本語は基本的には語順が決まっていない。しかし、話し手は視点の置かれた

の・こと・人」は、そうでないものより文頭近くに配置する

 

下線の部分は、「話し手は、その時注目している「もの・こと・人」のほうを、そうでないものより文の前のほうに置こうとする」ということです。次の例を見てください。

 

 (1)弟が手にリンゴを持っている。

           

(1)の文を続けてみてください。

 

もし、あなたが「弟」に注目している(視点を置いている)とすると、次のような文が続くのではないでしょうか。

 

 (2)弟が手にリンゴを持っている。しかし、弟は眠そうな顔をしている。

                 

つまり、注目している「弟」が文の前のほうに来ます。

一方、もし、あなたが「りんご」に注目している(視点を置いている)とすれば、次のような文ができるでしょう。

 

 (3)弟が手にリンゴを持っている。そのリンゴは赤くておいしそうだ。

                  

(3)では、注目している「りんご」が文の前のほうに来ています。

 

 では、「問題」(6)に戻って、たとえば、次のような状況では、①②に違いを感じますか? 感じるとしたら、どんなふうに違うでしょうか?

 

 (4)きのう10年ぶりで高校時代の友達に会った。

  ①2時から3時まで友達とおしゃべりした

  ②友達と2時から3時までおしゃべりをした。

 

 (4)①「きのう10年ぶりで高校時代の友達に会った。2時から3時まで1時間彼女とおしゃべりした。」は、高校時代の友達に会って、そのあとどうしたか、事実がそのまま述べられている感じがあります。

 一方、(4)②「きのう10年ぶりで高校時代の友達に会った。彼女と2時から3時まで1時間おしゃべりした」では、「彼女と」が強調されて、「10年ぶりに会った、その友達と」という「つながり」が強くなり、話し手のうれしそうな、なつかしそうな感じが表れているように感じられますが、皆さんはどうでしょうか?

 

 今回は、語順について考えましたが、日本語の語順で言えることは、「語順が違うことで意味的に大差はないが、話し手の気持ちや、話し手がそのものをどの程度注視しているかが表現されている」と言えるでしょう。