120)花瓶の花の絵

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 小学校4年生のとき、同じクラスに同じ名前の生徒が2人いた。1人は中島昭子、つまり私で、もう1人は中島静子と言った。同じ苗字なので出席順もくっ付いていて、いつも名前が「あ」で始まる私が先で、静子が次に続く。

 

 自慢げに聞こえるが、私は成績も優秀で、明るくハキハキした子供だった。毎年学級委員に選ばれていたし、健康優良児に選ばれたこともあった。先生方の信頼が厚く、クラスの誰かが答えられないときは、先生が私を当てて答えさせることが多かった。

(悲しいかな。しかし、私は、「子供のときは神童、大きくなったら普通の子」の典型的なタイプであった。)

 

 一方、静子は大人しく目立たない子供であった。しゃべっているのをあまり聞いたことがなかったし、どちらかというと、動作もスローなほうだった。

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 私は絵を描くのも得意で、壁に貼り出されることも多かった。

 クラスの担任は野田先生と言ってハンサムな若い先生だった。

ある日の昼休みに、野田先生が1人の男性を教室に連れてきた。先生の友達で、絵描きさんだと言う。

 

 野田先生は、その友達を教室のうしろの壁のほうに連れて行った。そこには生徒たちの絵が並べて貼ってある。教室にいた私達はぞろぞろと先生に付いていった。

 

「ほら、いい絵だろう!」

 

 野田先生は昭子(私)の絵を指さしながら、友達のほうを見た。

 

 絵は、いくつかの花が差してある花瓶の絵である。花々は赤や黄色で着色され、葉っぱの緑との対比が鮮やかである。白い花瓶も大きく描かれ、花々に負けずきれいに描かれている。花と花瓶が画用紙にきちんと、バランスよくおさまっているという絵だ。

 

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 「いい絵だろう」と言われた先生の友達は、笑顔でうなづいてはいたが、「そうだね」とも「いい絵だね」とも言わなかった。

 

野田先生は「どうかね?」と促すように、友達の顔を見た。先生には昭子の絵がよく描けているという自信があったようだ。

 そのとき、野田先生の友達が言った。   

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 「この絵がいいなあ・・」

 

 彼が指さしたのは中島静子の絵だった。静子の絵は、私の絵のちょうど真下にあった。同じ「中島」並びで、上下に並んでいた。

 

 野田先生は「へ~!」と言って、静子の絵を眺めた。

 

 静子の絵は昭子の絵と違って、全体的にぼやっとした色調であった。同じ花でも白色が混ざっているような、中間色の色合いだった。静子の花はぼんやりして、流れるような、漂うような感じだった。

 

「これがいいなあ。花が水に覆われている感じがいい・・」

 

 私もそのとき気がついたが、静子の花の絵には花瓶がなかった。画用紙の上の3分の2ほどは花であったが、花の下に水色で線が引かれ、花の下全体が水に浸かっているという感じであった。

 

 私は何十年も前のそのときの光景をはっきり覚えている。中島静子の花が、水の中で、静かに漂っている。水の中に浸かっているという感じがよく出ている。

野田先生の友達の話を聞いて、私は子供心に、ああ、こういう絵がいい絵と言うんだ、と思ったことも覚えている。

 

 野田先生は、学級委員の成績優秀な生徒の絵を見せて、ほめてほしかったのだが、当てが外れた。専門家は違う見方をした。

 

 私は悔しかったというより、野田先生に申し訳なかったなあという思いのほうが強かったように記憶している。

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