114)「思い」

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 「思い」とも「想い」とも書く。ものの本では、前者は頭で思うこと、後者は心で思うことと書いてあったが、その分け方ではかえって混乱してしまう。便宜的に、ここでは「思い」を使う。

 今回は少し故人への「思い」について考えてみたい。

 誰かが亡くなったという訃報が耳に入ってきたとする。人はまず何を思うか。

まずは驚き、故人に対する悼みを思う。そして故人との生前の交わりを思い出し、なつかしさと感謝を思う。

 そうした思いと同時に、通夜や告別式はいつか、また、それらへの出席をどうするか、などを考え始める。

 故人が親族の場合、また、非常にお世話になった人、非常に近しい人の場合は、あまり迷うことはない。自分が予定に合わせる。

 しかし、それほど親しくはなかったけれど、たまに接触をしたことがあったり、遠くからではあるけれど、自分なりの親しみや尊敬を感じていた人の場合はどうするか。

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  最近は近親者でお葬式を済ますことも多いので、式が過ぎて、かなり経ってから逝去の情報が耳に入ることも多い。お葬式に出るチャンスがなくなって、気楽と言えば言えないこともないが、自分の故人に対する「思い」をどうすればいいかに悩むことがある。私は人への「思い」が強いのか、いつまでも引きずってしまう。

 

 Tさんの場合は逝去の連絡が来たのは、亡くなられてから3か月も経った頃だった。親しくいっしょに仕事をしたわけではないが、彼女の細やかで丁寧な仕事ぶりを、遠くから眺めていた。ほっそりして、今にも折れてしまいそうな体だったが、自分の意見ははっきり言うし、仕事に対して真摯に向き合っている姿勢が私は好きだった。一度だけ私の仕事に対して、助言をしてくれたことがあった。それが的確だったので、彼女に対してずっと恩義を感じていた。恩義のつながりで、年に一度の年賀状だけは交換していた。

 彼女の訃報を知って本当は花でも送りたかった。彼女はアパートに一人住まいだったという。花を送るとしても誰に送るのか。彼女の元の勤め先に聞いてみたが、会社のほうは詳しいことを何も知らないようだった。

結局は何もしないまま、今日に至っている。そして彼女の死から半年たった今も、彼女への「思い」、彼女の死に対する「思い」、何もしなかったことへの「思い」が、私の心に重く沈んでいる。

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 S先生は先輩にあたる。個人的な付き合いはほとんどなかったが、たった一度自分の大学に来ないかと声をかけられたことがある。私の事情でお断りする形になったが、学会での講演や、会議などでお目にかかることが多かった。彼女は別の先輩の友人でもあったので、その人を通じてお会いすることもあった。手土産にもらったチョコレートにLift up your chin! というのがあった。そのころ元気のなかった自分には有難い言葉であった。

 そのS先生の訃報を聞いた。やはり亡くなられてしばらく経ってからだった。お葬式はすでに家族で執り行われたとのこと。

この時も自分のS先生への「思い」をどう収めるかが、自分の中で問題になった。先生のために何かして差し上げたいという気持ちが強くなっていくばかりだった。

 幸いなことにS先生の所属しておられた大学の日本語センター主催でお別れ会が開かれることになった。

        f:id:hattoritamo:20210203171646p:plain                         私はS先生の大学とは全く関係がなかったし、知り合いもいなかったが、お別れ会に出席することにした。お別れ会に出席することで自分のS先生に対する「思い」を終わらせようと思った。お別れ会に出れば、自分の引きずっている気持ちも収まりそうに感じた。

 結果的には、お別れ会に出て、何人かの顔見知りに挨拶をして、言葉を交わす、それだけだったが、それだけで自分の「思い」が整理されるのを感じた。

 

 通夜やお葬式、また、一周忌、三周忌などの法事が中止されたり、簡素化されたりすることが多くなった。主催者側の、参列者に対する配慮によるためとも言われるが、確かにそれで参列する手間も省け、楽にはなるが、一方でどこか落ち着かない気持ちになる。ちゃんとお別れしなかったこと、故人に感謝を表せなかったことなどが、一つの「思い」となって、くすぶり続ける。

 

 「思い」を軽くするためには、もしかしたら、昔のように、時には形式的といえることでも、儀式が行われ、それに参列することが、人間には必要なことなのではないか、と思える今日この頃である。