尾崎紀世彦が歌う「また逢う日まで」は多くの人に愛され、また、聴く者の心に響く歌である。日本レコード大賞も獲っている。
この歌には原曲があって、先日、原曲と「また逢う日まで」を並べて聞く機会があった。両曲とも阿久悠作詞、筒美京平作曲である。
原曲は紆余曲折の中で埋もれかけていたのを、「白いサンゴ礁」でヒットを飛ばしていたズー・ニー・ヴ―の新曲「ひとりの悲しみ」として使用された。
しかし、「ひとりの悲しみ」はヒットには至らなかった。
それを「分かりやすい歌詞にして力強い声で歌えば、必ず聴衆の心をつかめる」と考え、しぶる阿久悠に頼んで書き直してもらったのが、「また逢う日まで」である。
ズー・ニー・ヴ―の歌い方は、70年代のグループサウンズの雰囲気を残していて、爽やかで、軽く、どちらかといえば優しい歌い方の曲である。ふわふわとして始まり、ふわふわのまま終わる。それはそれなりによいが、ぐっと胸に響くものがない。
一方、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」は最初から絶叫調で、熱く、切々と語りかける。歌詞が分かりやすく、一言一言語りかけてくる。聞いている者がすぐに引き付けられ、自分でも歌いたくなる。
二曲を並べて聞いたときは、メロディそのものはそれほど違っていないように思えた。私が感じた違いはむしろ歌詞であった。同じ阿久悠が作詞したものなので、同じフレーズが残っている。しかし、「ひとりの悲しみ」はうちにこもる歌であるのに対し、「また逢う日まで」は、恋人への呼びかけの歌になっている。前者は歌詞のいくつかが抽象的で、暗示的であるのに対し、後者はそれとは逆に具体的で明示的である。
インターネットから拝借した両曲の一番の歌詞を紹介しよう。
明日(あした)が見える 今日の終わりに
背伸びをしてみても 何も見えない
なぜか さみしいだけ
なぜか むなしいだけ
こうして始まる ひとりの悲しみが
心を寄せておいで
あたため合っておいで
その時二人は何かを 見るだろう
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また逢う日まで 逢える時まで
別れのそのわけは 話したくない
なぜか さみしいだけ
なぜか むなしいだけ
たがいに傷つきすべてをなくすから
ふたりでドアを閉めて
ふたりで名前消して
その時心は何かを 話すだろう
私は両者を聴き比べて、メロディが同じなのに、なぜこんなにも違うんだろうと思った。一つの歌において、作詞と作曲のどちらが影響力を持つかは一概には決められないだろうが、私はずっと作曲のほうが影響力を持つと思っていた。それは、経験的に、歌を聞いた時、歌詞よりメロディのほうが頭に残りやすいし、歌詞は覚えていなくても「ふ~ふ~ふ」とメロディの一部を口ずさむことが多いからである。
しかし、「ひとりの悲しみ」と「また逢う日まで」二曲を並べて聞いた時、歌詞がこんなに大きい意味を持つのかと思った。歌詞一つでいい曲になるか否かを決定する場合もあることを知った。
だからこそ阿久悠があんなに評価が高いのだ。
もう一つ歌の力を決めるのは、歌手の歌い方である。小さい声でも大きい声でもいいのだが、聞き手の心に届く歌い方をしているかどうかが大きい。一語一語、一音一音が、心を込めて聞き手に向かっているか。
「ひとりの悲しみ」の歌い手が心を込めていないというのではないが、GSの特徴として全体のハーモニーを重要視しているとは言える。
そうなんだ。歌詞ってそんなに重要なんだと思った次第である。