数年前からお笑い芸人が作った絵本が話題になっていた。従来からある形の絵本ではなく、もっと精密に、まるでボタニカルアート(植物画)のように細かく描かれた絵本で、私もずっと一度見てみたいと思っていた。
著者はキングコングの西野亮廣(あきひろ)さんで、本の制作については、これもお笑い芸人のタモリさんから助言をもらったと言われている。
その『えんとつ町のプペル』(2016)までに、西野さんは5~6冊の絵本を描いている。1枚1枚すべてが植物画のように精密で、幻想的で、映像的な図柄である。
私は『えんとつ町のプペル』を手に入れた時、胸のワクワクするのを禁じえなかった。どんな絵本なのだろう、どんな絵が描かれているのだろう?
しかし、それは私が思い描いていた絵本のイメージとはちょっと異なった絵本だった。
まず、その分量。絵本は通常、30頁以下であることが多いが、『えんとつ町のプペル』は40頁ある。絵本としては長い。(文字数はそれほどでもないが 。)英語訳付きである。
ストーリーは感動的である。
「プペル」というのは、フランス語の「poubelle」(ゴミ箱の意味)から来ている。主人公のゴミ人間に付けられた名前だ。
インターネットのストーリーを参考にして「あらすじ」を次のようにまとめた。
あらすじ:
4000メートルの崖に囲まれた煙突だらけの町は、朝から晩まで煙だらけで、町の人は青い空や星を知らない。
ハロウィン祭で空をかける配達屋さんが配達中の「心臓」を落としてしまった。ゴミ山に落ちた「心臓」はいろんなゴミとくっついて、生まれたのが「ゴミ人間」。
しかし、「ゴミ人間」は人々から臭いと言われ、バケモノ扱いされた。
「ゴミ人間」に声をかけたのは、煙突掃除屋のルビッチ。ルビッチは「ゴミ人間」にプペルと名付ける。2人はすぐに仲良くなった。ルビッチの父は漁師で、去年波にのまれ、亡くなっている。
プペルとルビッチは仲良くしてるという理由で、町の子にいじめられたり殴られたりして、2人はだんだん仲が悪くなり、会うこともなくなってしまった。
ある夜、ルビッチのもとに体は汚れ、片方の腕もなくなったプペルが現れた。
2人は再会を果たし、砂浜にあった船に数百個の風船を付け、空の上を目指す。
町の煙を抜けると、そこにはたくさんの星が輝いていた。
ルビッチは以前自分の持っているペンダントを落とした。それは今ではプペルの心臓になっている。ペンダントをルビッチに返すには、体から引きちぎって渡すしかない。でも、そうするとプペルの命は危なくなる。
2人はペンダントを引きちぎるのを中止し、そのかわり2人は毎日会うことにした。
「プぺル、星はとてもきれいだね。連れて来てくれてありがとう。ぼくはキミと出会えて 本当によかったよ」
プペルは涙を流しながら、鼻の下を人差し指でこすった。それは、ルビッチの父親のいつもの癖だった。
ハロウィンは死んだ人の魂が帰ってくる日。ルビッチはプペルの正体がわかった。
ゴミ人間プペルは、実はルビッチに会いに来た、ルビッチのお父さんだったのだ。
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このストーリーが何枚もの精密な絵とともに絵本を構成している。
絵は「森を描く、人物を描く」といった作業にそれぞれ専門家を充て、「完全な分業を実現したい」という西野の思いから始まった。分業を担当する作家は約35人という。
ストーリーは西野さんが作ったとしても、絵を描くのには大量の作家が動員されている。だからこそ、大量の専門家によって綿密で幻想的で、人を圧倒する絵が描けたのであろう。
私の率直な感想は、これは従来の、私達が親しんだ伝統的絵本ではないなあということである。絵本というより、幻想的なCG(コンピュータ・グラフィクス)に似ている。スライドやフィルムでスクリーンに映写するにふさわしい映像原画風の集合体である。
フィルムなどの透明原画を通して見る、奥行き・広がりを感じさせる映像媒体である。
主人公をフォーカスしている(中心である)というより、全体映像の中の一つの素材として、主人公も配置されていているという感じだ。
私はボランチアとして、子供達に絵本の読み聞かせをしているが、西野プペルは、小さい子供達には難しいだろう。子供達はどこに焦点を合わせていいか戸惑うだろう。絵本ではなくプロジェクターなどで映し出す必要があろう。
『えんとつ町のプペル』はすぐに映画化されたようだが、映画の中でこそ生かされる絵本と言えよう。
大人にとっては、癒しや喜び、興味を感じる紙媒体として、自分の心を暖めてくれる幻想的な本として、密かに持っていたいという感じの絵本である。