264)尺八と琵琶の二刀流

 大谷翔平さんはピッチャーとバッターの二刀流だが、今日ご紹介する長洲与佳(ながすともか)さんは、琵琶と尺八をプロとして演奏する、邦楽の二刀流だ。

 対談のお相手は、狂言師大蔵基誠(おおくらもとなり)さん。(2023/11/20(日)NHKラジオ深夜便「にっぽんの音」より)

 

         

 

 

       

 

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 与佳さんは小さい時から、尺八などの和楽器に触れる機会はなかった。母親が小学校の先生で、そのころは音楽も教えていたが、授業ではレコードをかけて、「これが日本の音楽です」と言うぐらいだったという。

 一方で母親は、自分の子供達が大きくなって海外の人と話したり、自分の国のことを自分の言葉で伝えたりする時に、日本の伝統の音楽の生音を自分が演奏して子供達に伝えたいと思っていた。その取っかかりが尺八だった。

 祖父母の家を建て替えるために荷物を整理していたら、琵琶があった。ハイカラな明治後半生まれの祖父が茨城の地で琵琶を始めて、しかし、祖父も戦争の影響を受けて、師匠に琵琶を預けて戦争に行った。戦争から帰ってきて、祖父が師匠のところから琵琶を取りに行った。それがそのままずっと納戸に入っていて、与佳さんが小学4年の時に姿を現した。

 

大友:その琵琶は?

長洲:いい音がする琵琶だったので、ずっと現役で使ってきた。最近は木が痩せてきて、音が変わってきたので、今はお弟子さんのお稽古する時に使ったり。今も茨城の実家にあります。

 

         

 

 長洲与佳さんは、尺八と琵琶の二重奏者。小学生6年生からステージに立っていた。東京へ出て、ステージに立ってスポットライトを浴びるというのが彼女の夢でもあった。

 そのあと、東京芸術大学音楽学科尺八専攻科に進む。そして、人間国宝だった山口五郎さんに師事する。

 

大:この時は尺八専攻で行った?

長:はい。琵琶はどこを探しても四大(よんだい)で琵琶を専攻でやるところはなくて。どちらも好きだったが、四大で学びたかったということで、そうすると選択肢は芸大しかなかった。東京にも憧れがあり、山口先生にも憧れがあった。また、芸大にも憧れがあったので。

 

        

 

 山口先生に「琵琶もやっているが、続けてもよろしいですか」と尋ねた。「もちろんどちらかを選ばなければならない時は尺八を続けます」と言ったら、山口先生が、「琵琶なんてそんな素晴らしい楽器、ぜひ続けなさい」と言ってくださった。

それで二つ。

 

大:それで大学卒業後2003年には、熊本全国邦楽コンクールに第一位最優秀賞を琵琶奏者として受賞。2004年には尺八奏者としてCDデビュー。ユニット「りん」としての活動も開始した。

長:2003~2004年が転機の年で、2003年の時は琵琶をやめようか、やめないにしても距離を置きたいなと思っていた時期だった。で、距離を置くのであれば、琵琶をやっていたという証(あかし)として、邦楽コンクールに出た。第一審査でデモテープを送っている時は真剣に琵琶から離れることを考えていた。

大:尺八一本に絞ろうという気持ちなんですか?

長:いやー、琵琶も尺八も大好きなんですが、ちょっと琵琶を見てるのが苦しくなって、だから、好きなんだけど、つらいという複雑な感情を初めて抱いて、「だったら、今は尺八一本にしてみよう、また時が経ってから考えよう」と思ってたんですね。

大:けじめをつけるためにコンクールに出たら、最優秀賞。すごいですね。

長:いや、最後まで名前を呼ばれなかったので、現実は厳しいんだって自分に言い聞かせてたんです。これはいい機会だから、すぱっとやめようと。

 

長:最後の最後に名前を呼んでいただいて、審査委員のある方から「あなた琵琶続けなさい。絶対やめちゃだめよ」って。私何も言っていないのに、「続けなさい」って言われたんです。

大:審査の方は見抜いたんですかね?

長:私は琵琶を続けていいんだと思うようになって、それ以降は考えることなく続けているます。

 ずっとおじいちゃんの琵琶を使っていて、ブラジルにも海外でも使っていた。祖父は私の琵琶を真正面から聞こうとする人ではなかった。何か思うところがあったのか、私が琵琶を練習していても、ドアの向こうで耳をそばだてて聞いているという感じで、それを祖母から亡くなったあと聞いて。理由は分からないんですけど。邪魔しちゃいけないと思ったのか・・・。

大:思うとこがあったんですかね。尺八の魅力と琵琶の魅力では・・・。

長:よく聞かれます。私、毎回言っているんですけど、人間臭いところが好きです。そこが魅力だと思っています。やっぱり、尺八は虚無僧(こむそう)の方が修行に出るときに使っていたせいで、琵琶のほうも虚無僧の方が弾かれていたりとか、そういう部分では共通するものがあるんです。

 

              

 

 両者がで共通している部分は、嘘をつかずに、さらけ出すというところじゃないんじゃないかなあと思っていて。

 これは尺八・琵琶に限ったことではないと思うんですけど、邪念が入ると、必ず違う音吹いちゃったりするんですよ。調子よく吹いていて、ちょっと違うことを考えていたりすると、音を間違えたりとかあるんです。だから、無の心というか、余計なことを考えずに、一つのことに集中しなければ、楽器たちはダメなんだと私は思っていて・・・。

大:狂言も同じです。僕も狂言の魅力は、人間らしさとか、人間のあり方がそこにあるなとというような見え方がするんで、面白いなあと思いますね。

 無の境地ってなかなかなれない、なりづらいですね。

長:難しいですね。

大:舞台でもたまに、演奏でも、今日良かったなという時があるじゃないですか。それが生の楽しさかなと思います、生舞台の。今日はちょっと素直に入れたなあっていう日もあるし、ちょっといやらしかったなあという時もあるし。

長:琵琶の弾き語りをしていると、琵琶の物語の情景を思い浮かべながら弾き語りするんですが、その境地に入った時って、客席が漆黒(しっこく)の海になるんですよ、毎回。不思議なんです。必ず夜なんです。

 

         

 

 一人でやっていると、大体ピンスポットを当ててくださいますね、そのピンスポットが月光になるんです。それが見えてくると、「あ、来た」って思うんですよね。

 

           

 

 でも、「来た」と思うとよろしくないので、考えないように考えないようにって、ただそれも、瞬きをすると一回リセットされちゃうんです。

 客席に戻ってしまって、でも、それを瞬きをしないでずっと続けていると、漆黒の海に戻るんですよ。それを見たくて見たくて、なるべく瞬きをしないように頑張ろうとするんです。だから、そのツボに入らないと漆黒の海が現れないと。

大:その漆黒の海が見えている時は、お客さんが見えてるんでしょうね。

長:あ、そうなんですかね。

大:分かんないですけど。そうだと思いますよ。やっぱりゾーンに入るってねー。

 

 二人の話し合いは続く。琵琶と尺八二刀流の難しさと醍醐味は長洲さんにしか分からないけれど、楽器演奏者が味わう「漆黒の海」というのは、無我の境地と言うのか、谷川俊太郎の「その世」(ブログ257)の境地に当てはまるもののようにも思えてくる。

263)『えんとつ町のプペル』を読んで

 数年前からお笑い芸人が作った絵本が話題になっていた。従来からある形の絵本ではなく、もっと精密に、まるでボタニカルアート(植物画)のように細かく描かれた絵本で、私もずっと一度見てみたいと思っていた。

 

      

      

 

 著者はキングコング西野亮廣(あきひろ)さんで、本の制作については、これもお笑い芸人のタモリさんから助言をもらったと言われている。

 

           


 その『えんとつ町のプペル』(2016)までに、西野さんは5~6冊の絵本を描いている。1枚1枚すべてが植物画のように精密で、幻想的で、映像的な図柄である。

 私は『えんとつ町のプペル』を手に入れた時、胸のワクワクするのを禁じえなかった。どんな絵本なのだろう、どんな絵が描かれているのだろう?

 しかし、それは私が思い描いていた絵本のイメージとはちょっと異なった絵本だった。

        

 

 まず、その分量。絵本は通常、30頁以下であることが多いが、『えんとつ町のプペル』は40頁ある。絵本としては長い。(文字数はそれほどでもないが 。)英語訳付きである。

 ストーリーは感動的である。

 「プペル」というのは、フランス語の「poubelle」(ゴミ箱の意味)から来ている。主人公のゴミ人間に付けられた名前だ。

インターネットのストーリーを参考にして「あらすじ」を次のようにまとめた。

 

あらすじ:

 4000メートルの崖に囲まれた煙突だらけの町は、朝から晩まで煙だらけで、町の人は青い空や星を知らない。

 ハロウィン祭で空をかける配達屋さんが配達中の「心臓」を落としてしまった。ゴミ山に落ちた「心臓」はいろんなゴミとくっついて、生まれたのが「ゴミ人間」。

 しかし、「ゴミ人間」は人々から臭いと言われ、バケモノ扱いされた。

「ゴミ人間」に声をかけたのは、煙突掃除屋のルビッチ。ルビッチは「ゴミ人間」にプペルと名付ける。2人はすぐに仲良くなった。ルビッチの父は漁師で、去年波にのまれ、亡くなっている。

 プペルとルビッチは仲良くしてるという理由で、町の子にいじめられたり殴られたりして、2人はだんだん仲が悪くなり、会うこともなくなってしまった。

 

 ある夜、ルビッチのもとに体は汚れ、片方の腕もなくなったプペルが現れた。

 2人は再会を果たし、砂浜にあった船に数百個の風船を付け、空の上を目指す。

町の煙を抜けると、そこにはたくさんの星が輝いていた。

 ルビッチは以前自分の持っているペンダントを落とした。それは今ではプペルの心臓になっている。ペンダントをルビッチに返すには、体から引きちぎって渡すしかない。でも、そうするとプペルの命は危なくなる。

 2人はペンダントを引きちぎるのを中止し、そのかわり2人は毎日会うことにした。

「プぺル、星はとてもきれいだね。連れて来てくれてありがとう。ぼくはキミと出会えて 本当によかったよ」

 プペルは涙を流しながら、鼻の下を人差し指でこすった。それは、ルビッチの父親のいつもの癖だった。

 ハロウィンは死んだ人の魂が帰ってくる日。ルビッチはプペルの正体がわかった。

ゴミ人間プペルは、実はルビッチに会いに来た、ルビッチのお父さんだったのだ。

 

         

 

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 このストーリーが何枚もの精密な絵とともに絵本を構成している。

 絵は「森を描く、人物を描く」といった作業にそれぞれ専門家を充て、「完全な分業を実現したい」という西野の思いから始まった。分業を担当する作家は約35人という。

ストーリーは西野さんが作ったとしても、絵を描くのには大量の作家が動員されている。だからこそ、大量の専門家によって綿密で幻想的で、人を圧倒する絵が描けたのであろう。

 

 私の率直な感想は、これは従来の、私達が親しんだ伝統的絵本ではないなあということである。絵本というより、幻想的なCG(コンピュータ・グラフィクス)に似ている。スライドやフィルムでスクリーンに映写するにふさわしい映像原画風の集合体である。

フィルムなどの透明原画を通して見る、奥行き・広がりを感じさせる映像媒体である。

 

         

 

 主人公をフォーカスしている(中心である)というより、全体映像の中の一つの素材として、主人公も配置されていているという感じだ。

 私はボランチアとして、子供達に絵本の読み聞かせをしているが、西野プペルは、小さい子供達には難しいだろう。子供達はどこに焦点を合わせていいか戸惑うだろう。絵本ではなくプロジェクターなどで映し出す必要があろう。

 『えんとつ町のプペル』はすぐに映画化されたようだが、映画の中でこそ生かされる絵本と言えよう。

 大人にとっては、癒しや喜び、興味を感じる紙媒体として、自分の心を暖めてくれる幻想的な本として、密かに持っていたいという感じの絵本である。

 

 

262)★日本語(文法)ものがたり27「すこやかにお過ごしください」

              

 NHKのラジオ放送に「深夜便」という番組がある。夜の11時5分から翌日の午前5時まで1人のアナウンサーがMCを担当し、対談あり、音楽あり、落語あり、朗読ありsめの、夜眠れない人達や、夜中にふと目覚めた高齢者などに憩いや楽しみや情報を流してくれる。

 歴史ある、品位ある番組で、常に心地よい声で、心地よい日本語を聞かせてくれる。

2週間ごとに毎日アナウンサーが変わる。元アナウンサーが多いが、若い現役アナウンサーも混じっている。スポーツ実況を担当してきた人もおれば、音楽に強い人も、美術・芸術専門だった人もいる。

 

          

 

 11時5分の「こんばんは」から始まって、翌日の5時前には各アナウンサーはお別れのことばと挨拶を述べる。それは、例えば、「温かくしてお過ごしください」であったり、「何か一つでも笑顔になれるいい一日をお過ごしください」「又、次回お会いしましょう」であったりする。その中で、Sアナウンサーはいつも、「すこやかにお過ごしください」と言って終わる。

 「すこやかに」は漢字で書けば「健やかに」になる。この「すこやかに/健やかにお過ごしください」が私にはどうもしっくり来ないのである。(ここでは平仮名で表す)

 

 「すこやかにお過ごしください」は、別の言い方をすれば、「お元気でお過ごしください」「お身体を大切にしてください」「ご健康をお祈りしています」ほどの意味であろう。

   

 

 インターネットを調べると、「すこやかにお過ごしください」がかなり取り上げられている。説明の代表的なものは、「「すこやかにお過ごしください」は、感謝や思いやりを表現する美しいことばの一つです」とある。(ビジネス用語ナビ)

三省堂の『例解国語辞典』でも、「すこやか」の文例として、「どうかおすこやかにお過ごしください」が挙げられている。

国語辞書に取り上げられているのだから、たぶん「おすこやかにお過ごしください」は適切な文なのであろう。

 

 女性の知人3人に「すこやかにお過ごしください」という言い方が自然か否かを聞いてみた。(「おすこやかに」ではなく、「すこやかに」である) 彼女たちはシニアで、日本語学や日本語教育とは関係のない人達である。

 

Aさん:相手を敬う時に使うので、おかしくないと思う。

Bさん:おかしいとは思わないが、相手に対して言うのだと思うので、(自分なら) 「おすこやかに~」と、「お」を付けると思う。

Cさん:私はあまり使わない。丁寧な使い方になってしまって、使いにくい感じがする。

 Bさんの言う、「a.すこやかにお過ごしください」と「b.おすこやかにお過ごしください」を比べると、bには「すこやかに」に丁寧を表す「お」が付いて、aより丁寧になっている。aがしっくりこない私には、より丁寧になったbのほうがより自然に感じられる。

(ただし、「おすこやかに」と「お過ごし」両方に「お」が付いているので、丁寧過ぎる二重敬語だという意見もある。)

 

 彼女たちの意見・感想をまとめると、「すこやかにお過ごしください」には、特に違和感はないが、自分達は使わないということになろうか。

 

 ここで私が違和感を持つ理由を考えてみたいと思う。少し文法的になるがお許しいただきたい。

 

 まず「すこやか」という語であるが、「すこやか」は「すこ」に接尾語の「やか」が付いた形容動詞語になっている。他にも次のようなものがある。

 

 はなやか、あでやか、こまやか、はれやか、さわやか、ささやか、のびやか、なごやか、しめやか、きらびやか、おだやか、にこやか・・・

 

          

              あでやか

          

              さわやか

 

         

              なごやか


         

              のびやか 

             

          

              しめやか

               

              きらびやか

 

 『日本国語大辞典』(小学館)は「やか」を次のように説明している。

 

「やか」(接尾)は名詞・形容詞の語幹、擬声語など、状態を表す語について、形容動詞語幹を構成する。それ自体ではないがそれに近いこと、その状態そのままではないがそれに近い状態であることを表すいかにも・・・である感じがするさま

 

 私が考えるのは、「やか」の付いた形容動詞(ブログ208参照。「な形容詞=形容動詞」は、第一義的に「いかにもそのようである」という、そのものの持つ状態を表す形容詞であり、状態描写に使われるのが最も適しているのではないかということである。

例えば、「子供はすこやかに育っている」「すこやか に新春をお迎えのこととお慶び申し上げます」「避難している子どものすこやかな成長を願う」「すこやかな1年になりますように」などで、ここでも「すこやか」は、「(いかにも)そういう状態で」という状態に焦点が当たっている。

 

 他の例に「にこやか」という言い方があるが、例えば写真店に行って写真を撮ってもらうとする。写真を撮るカメラマンは、緊張しているお客さんに「にこっと笑ってください」「にっこりとして」とは言うかもしれないが、「にこやかにしてください」とは言わないだろう。もしそう言われたら、どういう表情をしたらいいか戸惑ってしまうだろう。

 つまり、「やか」の付いた「にこやか」は状態を描写する語で、指示や依頼を表す「~てください」とは結び付きにくいからである。

         

 「すこやかにお過ごしください」より「どうか/どうぞすこやかにお過ごしくださいますように」のほうが自然に感じられるのも、「すこやか」は、本来文章語なので、話し言葉の「~てください」のような表現とは結び付きにくいということもあるが、同時に「すこやか」が「いかにもそういう状態である」という状態を表す語なので、「過ごしてください」のように依頼・指示の強い言い方より、「どうか/どうぞ~くださいますように」のようなゆるやかな言い方のほうが合うのではないかと考えられる。   

        

 以上が私が、深夜便アナウンサーの「すこやかにお過ごしください」に違和感を感じる理由であるが、皆さんはいかがでしょうか?

 

 「すこやかにお過ごしください」は、せめて、「すこやかにお過ごしくださいますように」「どうぞすこやかな一日をお過ごしください」と言っていただけないだろうか?(「すこやかな一日」にすると、どんな一日であるか(どんな状態であるか)という意味合いが出てきて、より自然な感じになるように思われる。

 

 

 

 

 

 

 

261)朝ドラ「ブギウギ」

 

         


 今日1月18日(木)の話の内容は、アメリカ兵と恋する「小夜」がスズ子さん宅へ挨拶に来るところである。今まで、スズ子のお付きをしていた田舎者の小夜が、スズ子にアメリカ兵との結婚報告するために、彼を連れてスズ子の家を訪ねる。

 

        

 

 アメリカ兵に騙されていると信じているスズ子は怒っているし、小夜は自分の気持ちをスズ子に理解してほしい。朝ドラのストーリーとしては、このところ、かなり盛り上がり、濃くなり、熱くなっているところである。

 

 8時15分が来て、朝ドラが始まる。例のにぎやかなブギウギのう歌が踊りとともにテレビに映される。たぶん初回にはほとんどの視聴者が衝撃を受けただろう、そこに登場して歌いながら踊っているのは、まるで骨と皮の女性(笠置シズ子さんをイメージした?)である。顔はやせ衰え、頬はごそっと削げている。ワンピースを着て踊るのだが、その首は、その手足は、その胴体は、ガリガリの骨みたいな女性の人形である。 

 

         

 

 そのガリガリの骨人形が毎朝毎朝出てきて、脚をあげたり、スカートを上げたりして、踊りまくる。歌いまくる。なんで、ガイコツなのか、と視聴者は皆驚いたし、不満に思った人も少なくなかったはずだ。

 私も不満を抱いた一人である。しかし、一方で、こう考えようとも思った。

「このぐらい痩せた人が登場してもいいのかもしれない。毎朝ピチピチの、豊満な、魅力たっぷりの女性が登場していたら、その部分が濃く厚く(熱く)なって、毎日の朝ドラにはしつこくなりすぎるかもしれない。

 そうなると、かえって、視聴者は飽きてしまうかもしれない・・・。

 

 私はそう思いながら、痩せッピの歌とダンスを我慢してきた。そして、2か月ぐらい経って、だんだん気にならなくなり始めている自分に気がついていた。

 

        

 

 そして、今日、「2024年1月18日のブギウギ」のタイトル画面を見た時、「この痩せッピぐらいがちょうどいいなあ!」と思ってしまった。

話の内容が盛り上がっていて、濃いので、タイトル画面がさらーっと、ガイコツぐらいがちょうどいいような感じがした。

タイトル画面の制作者は、そこまで考えて、痩せッピ笠置シズ子人形を用意したのだろうか?

 

       

 

 朝ドラ「ブギウギ」は好評のようである。かの名歌手笠置シズ子の半生を描いたドラマである。スズ子を演じている趣里さんが、大阪弁を徹底的に訓練して覚えたと聞いてびっくりした。両親の水谷豊も伊藤蘭さんも、特に大阪弁を話す人ではないのに、どうして彼女がベラベラと、まるで大阪出身のように大阪弁をしゃべるのか不思議だった。そうか、それは彼女のすごい努力の結果なのだ。

 

         

 

 「小夜ちゃん」役の富田望生もあんな田舎娘丸出しの、品のない女性を演じているが、素の彼女はもっと素直な、可愛らしい、今風の女の子だ。彼女なりの演技も大したものだ。

 最近登場の喜劇王タナケンの生瀬勝久も、渋い役者さんであるだけに、いい味を醸し出している。

 

        

 

タイトルソングと踊りに、思い切ったアイデアをぶつけた「ブギウギ」の、更なる今後の展開を期待したい。

 

260) 『読書脳』(2023出版)を読んで

皆様、今年もよろしくお願い申し上げます。

 

1月も中旬になりました。どんど焼きも終わったころですね。

さて、私のブログも今週から再開いたします。

今年は、月3回(1,2,3週目火曜日)ブログ更新を行い、4、5週目は情報収集のためお休みにします。

 

取り上げる内容は、次のようです。

  • 自分が読んだ本の紹介・感想
  • ラジオ放送その他で得た情報の紹介・感想
  • 「ことば(日本語他)」についての情報・思うこと

 

1月はイレギュラー(変則)で、第3,4,5週目火曜日にブログをお送りします。

 

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260) 『読書脳』を読んで

  著者:樺沢紫苑(2023) サンマーク出版 1760円

 

         

 

 著者の樺沢氏は、精神科医であり、ベストセラ―作家である。読書法のHow toものでありながら、もう少し深いところに視点を置いた本である。痛いところに手の届く丁寧さと、目配りがある。

 主に、著者の経験・体験に基づいて提言されている。

 読書に関する事柄が網羅的に取り上げられ、中心部分だけでなく、周辺の細かいケースも取り上げ、解説している。

 読書感想をどういう形で示すかという点で、私なりの疑問・悩みを本書がどう説明しているかを軸に据える。(以下、私自分の疑問(「?」)と、著者の説明(「●」)を示す。)

         樺沢紫苑氏

 

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?私はせっかく本を読んでも、すぐ忘れてしまう。すぐ忘れるから、本を買って読んでも甲斐がない。読んでも仕方がないという気持ちがある。

 

  • 本の内容を覚えているかいないかは、読書後のアウトプット(外に出す)にかかっている。読んだ内容や感想を人に話す、メモする、ポイントをまとめる、感想を書くといったアウトプットにつなげることで、忘れる度合いは減るし、忘れにくくなる。残った記憶は10年以上続く。

 

?毎月コンスタントに本を読みたいが、お金がかかる。

  • 大体の目安を決める。月1万円程度にすれば、年12万円。この程度なら可能になるだろうから、これを基準として、コンスタント(一定)に本を購入し、読む。

 

 

 

?本は荷物になる。置く場所を増やしたくない。

  • 電子書籍も非常に簡便で、使いやすい。本の値段も2,3割安くなる。場所をとらないので、一考する価値がある。本は人に差し上げたりするのもよい。

               

?私はベストセラーの本、今話題の本、人がよく読んでいる本を読まなければと思って、買ってしまう。どんな本を読めばいいか?

  • 本は、どう読むかより、何を読むかが重要である。まず何が読みたいか、自分の目標を設定する。幸福感に包まれて読むと、記憶力も高まる。ワクワクする本をワクワクしている間に一気に読むのが一番いい。ベストセラーやランキングに頼らないで、自分軸を持って本を選ぶ。

 

?私は、どうしても高度な本を読まなければと思ってしまう。入門書や基礎本より応用的な本を選んでしまい、結局、難しくて、読めないで、積読(つんどく)になることが多い。

           

  • 今の自分のステージに合った本を読むようにする。まず入門書から読む。そして基本知識と全体像をつかむ。このやり方のほうが、結局、長続きする。

         

 以上、大まかですが、樺沢紫苑著『読書脳』を紹介いたしました。

年末年始のご挨拶

 

 

 いつもhattori.tamoのブログを読んでいただいて、有難うございます。

皆さまからのご感想やご批判を、有難く思っております。

 

 来年からはもっと本を読み、真実を見つめ、もっと深く考えて、意見を発していきたいと思っております。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 2023年末は今回で休みに入らせていただき、また来年1月末か2月初めから、ブログを再開させていただきます。

 

 どうぞ皆さま、ご自愛のうえ、楽しい、有意義な年末年始をお過ごしくださいませ。

 

2023年12月20日                 Hattoritamo

 

 

 

 

259)人に長い老後がある理由

 小林武彦氏は、生物学者で、東京大学定量生命科学研究所教授である。著作に、『生物はなぜ死ぬのか』『なぜヒトだけが老いるのか』などがある。週刊文春(2023年7月27日号)掲載の「阿川佐和子のこの人に会いたい」で、小林氏の「シニア」というものに対する考え方の一部を知ることができる。

 

             

 

★「なぜヒトだけが老いるのか」という質問に対して、小林さんは次のように答えている。

 

 一つには集団で暮らすようになったから。

 そうなると、知識や経験が豊富なシニアが、まとめ役としていたほうが有利になる。集団が繁栄して大きくなると余裕が生まれ、さらにシニアの居場所が確保される。こうして寿命延長の「正」のスパイラルが起きたのではないか。

 ホモサピエンス(知性を持った人間)が生き残ったのは、集団の規模が大きかったから。その圧倒的な組織力で他を滅ぼしたとも言われている。その大きな組織をまとめていたのは、シニアだったと考えられる。

  

   

 

 年長者は年の功で多くの経験があるからこそ、バランスを取ってうまく集団の輪を保つことができる。だから、シニアは社会にとって重要な存在である。

 

★そもそも「シニアとは?」という質問に対して、小林さんはこのように答えている。

 

 年齢に関係なく、知識や経験が豊富で、利他的で公共的な精神を持っているような人のことを言う。そういう人々が今の人類の繁栄を築いてきた。

歳をとっていても、利己的で自分の既得権だけを守り続けている人は、シニアでも何でもなく、単なる迷惑な人である。死に意味があるように、年をとることにも意味がある。      

 シニアが増えないと、日本の未来は暗くなる。単に高齢者ばかりが増えていくと、社会のバランスも悪くなる。

 一番いいのは、シニアの人がしっかり社会に組み込まれて、公共のためにも仕事をすることである。人間のシニアも社会から遠ざけず、働きたい人は働けるようにしたらいい。定年なんかやめてくれ、と思う。

 

 定年制は、労働人口が増えている時代はいい点もなくはないけど、現代のように労働力が減っている時代ではいかがなものかと思う。

 

       

  日本は年齢差別が強いから、年をとると雇ってもらいにくくなる。日本は高齢者資源が豊富なんだから、無駄にしてはもったいない。

 

 「シニアに冷たい社会」というのは、若者にとっても実は生きにくい。

世の中にはいろんな人がいるから、バランスがとれている。若い人も将来、歳をとるし、いつケガや病気で働けなくなるか分からない。だから本当は多様な人がいるほうが安心なのである。

 シニアは社会を安定させて、若者がクリエイティブに生き、楽しんで子育てできるような環境を作るという、重要なミッションを背負っていると思う。

       

★「なぜ年をとると、人間は幸福感で満たされるようになるのか?」

小林さんはこのように答えている。

 

スウェーデンや日本で、85歳以上の超高齢者を対象にアンケート調査をしたところ、幸福感に満たされていたり、自己肯定的で他者に対して尊敬の念を抱いていたり、宇宙や自然とつながりを強く感じている方が多いという結果が出た。これを「老齢的超越」と呼んでいる。

人間は反省が大好きである。「反省する猿」であるがゆえ進歩してきた生き物で、反省することで将来に向けて行動を改善することができる。

 

        

 

 でも、超高齢者になって、やりたいことを全部やったら、もういつ死んでもいいという心境になる。成長はもう必要なく、反省することも減っていくだろう。だから自分や他人、すべてに対して肯定的になる。後悔も反省もない、ある種一番の幸福感とも言える幸せな気分に包まれて、死をも恐れなくなる。

 

死が怖いという人は、「周りに迷惑かけちゃうな」とか、「パートナーや子供が悲しむな」とか、死んだら困ることがあるから、死への恐怖を感じてしまう。

ただ一定以上年を重ねると、そういった心配が減り、ある意味楽になるのかなと思う。

 

★「「超越」ってどうやったらできるのでしょう?」

 

 かなえたいことやミッションがあるうちは、「超越」は難しいだろう。

調査では「超越」できるのは、85歳以上という結果だったが、本当はもう少し上の年齢かもしれない。そして、「超越」する前が実は一番辛い時でもある。

がんや認知症など病気にかかったり、パートナーに先立たれたり、もう大変な時期になる。75歳から85歳ぐらいまでの一番キツイ時期を、今まで蓄えてきたすべての人的財産を駆使しながら乗り越えなきゃいけない。

 

 

 



 ただそこを乗り越えたあとには、「超越」が待っている、と考えて生きるのはどうだろうか? 

 最後は宇宙や自然とのつながりを感じながら、幸福感に満たされて、もと来た場所に戻る気持ちで・・・。