NHKラジオ放送「文芸館」で、藤岡陽子作『遺言』を聞いた。小さな作品であるが、私の姉が着物の着付け師であることもあって、興味深く聞いた。テーマが「着物」であるせいか、しみじみと胸に沁みるものがあった。
以下は、藤岡作品のあらすじをまとめさせてただいたものである。
藤岡陽子さん
倉島さんは、たまたま見た「市民だより」の着付け教室に参加する。期間は10日間。午後4時から2時間の講習であった。
講習では女性の着付けを習うことになっていたが、なぜかそこに老年男性の倉島さんの姿があった。先生も男性が混じっていることに戸惑い、倉島さんにそれとなく言う。
しかし、倉島さんは一途に講習を受け続けた。その態度は謙虚で、一生懸命であったので、いつのまにか彼は、受講生の一人として皆に受け入れられていった。
太鼓帯を結ぶ場面でも、男性の彼の結び方はしっかりしていたし、彼が家から持ち寄った太鼓帯は品の良さで人目を引いた。
帯の柄は紺色の地に水玉がちりばめられたもので、それは夏に降る雪の柄であり、夏に締める帯としては粋なものであった。
「倉島さんの後ろ姿からは、かつてあった日本人の美しさを感じますね」
と先生が言うと、倉島さんは口をつぐんだまま恥ずかしそうに下を向いた。
講習の終わりが来た。仲間が記念の写真を撮った。それはみんなの記念になった。
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真美が、倉島さんが亡くなったという知らせを受けたのは、講習が終わって2年後であった。
倉島さんの葬儀は円上院という寺で行われた。都合の付く旧メンバーが葬儀に参加した。
棺に納められた倉島さんは2年前と何ら変わることなく、頬に入れられた綿のせいか、ふっくらしていた。
私達は示し合わせたわけではないのに、全員着物を着て、お太鼓を上手に結んでいた。「講習が終わったら皆で着物姿で会おう」という約束は立ち消えになっていたが、倉島さんの葬儀で果たされることになった。
倉島さんへの思いが、生きている私達をもう一度つなげてくれたのだ。
みんながそれぞれに倉島さんに語りかけ、最後のお別れにつなげていく。10日間という短い期間だったが、倉島さんはみんなに何かを残していった。
皆がつぶやく、「倉島さんが女性の着付け教室に参加したのは謎でしたねえ」と。
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皆には話していなかったが、講習会の終わったあと、真美は倉島さんに二度会っている。
一回目は、自宅の近くで出会った。倉島さんは彼と同い年ぐらいの女性を連れていた。かなりきつい勾配の坂を倉島さん達は下り、私は上っていた。彼らの歩みは遅く、一歩歩いては止まり、また一歩歩いては止まる。なかなか前に進まない。
何度呼んでも気がついてくれなかったが、すれ違う時にもう一度呼ぶと、ゆっくりした動作でこちらを振り返った。
そして倉島さんは、
「これはこれは、お久しぶりでございます。ええと、たしか・・・」
「斉藤です。着付け教室でお世話になりました。斉藤真美です」
隣にいる女性が奥さんだということはすぐに分かった。倉島さんの手が腰に据えられ、腕が添えられていた。そして女性は何よりも白地の帷子(かたびら)を美しく着こなしていた。帯はあの、紺地に白地の水玉のもので、夏の日差しの中で、彼女は透き通るように立っていた。
が、彼女はさっきからまっすぐな目で別の方向を見ており、こっちに向き合おうとはしない。
倉島さんは、「妻はもう多くのことを理解しないのです」とつぶやいた。
彼女のうるんだ目は、現実とは違うどこか遠い世界を見ているように思えた。
「倉島さん、奥さんのために講習に来られてたんですか?」
ふだんなら不躾な質問などしないが、高揚感からか、そんな質問をしてしまった。
「ええ、お恥ずかしいですが、おっしゃる通りです。この人は着物を着ている時が一番いいのです。
ずっと着物で暮らしてきた人ですから、せめて、これだけは、これまで通りにと思いまして・・・」
そして、倉島は「有難うございます。今から病院へ行くのです」と言った。
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それからしばらくして、倉島さんが真美のマンションを尋ねた。風呂敷包みを抱えている。
「わざわざ私の家に来てくださったのですか?」
と真美。
「妻はこの度、施設に入所することになりました」
風呂敷包みの中には、紺地の帯が小さくたたんであった。夏に雪を降らしたあの帯であった。
「施設では着物を着ることはありませんから。斉藤さんがほめてくださったから」
「さみしくなりますね」
「いえいえ、少しはさみしくなるでしょうが、どこにいても変わらないものですよ」
倉島さんは誰かといっしょに暮らすことが似合っている。
翌年真美は、「奥様も亡くなられたそうだよ、今年の春」と聞いた。真美は、いただいた帯を倉島さんの棺に置いた。
着付け教室みんなの倉島さんへの最後の言葉は「さようなら」ではなく、「ありがとう」だった。