88)乗馬と私

一時期、馬がとても好きだった。引き締まった体、つややかな毛並み、優美な動き、走り方、すべてに魅了されていた。

仕事の関係で福岡に2年住んだことがある。単身赴任だった。

土日は月に1回は東京に帰るが、その他の週末がぽっかりと空いて、一人ぼっちになることが多い。どうして乗馬を習おうという気になったのかは覚えていないが、ある日気がついたときには、市内の油山の麓にある乗馬クラブで入会手続きをとっていた。バスで2、30分、連絡をとればオーナーがバス停まで迎えに来てくれる、中規模の乗馬クラブである。

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乗馬の練習は、単に馬に乗っていればいいというものではない。馬に乗る前は、受付で指定された馬を厩舎まで迎えに行き、待機場所まで連れて来る。そこで、乗馬の準備をする。

馬の背中に鞍を載せる。鞍は皮でできていて足を載せる鐙(あぶみ)がぶら下がっている。これがかなり重い。鞍の下に敷くゼッケンも入れると、5キロぐらいになるだろうか。

次に馬の顔にハミを付ける。ハミはいくつかのロープからできていて、馬の口に装着し、手綱と連結させ、これによって乗り手の意思を馬に伝え、操縦する。

鞍を嫌がる馬はいなかったが、ハミを嫌がる馬はいた。ハミを口にくわえさせるので、それを嫌がって顔をそむける馬がいる。

馬の顔がこんなに大きいのかと思ったのも、馬にハミを噛ませえるときだった。私の顔の何倍あるのだろう。まず目が大きい。縦長の目は何センチあるだろう。その目でギョロリと私を眺める。馬のご機嫌が悪いときはプイと横を向いてしまう。

鞍を載せてハミを噛ませると、そのあとは練習の開始時間を待つことになる。体力のない私は、もうその時には準備だけでかなり疲れている。

練習の時間が来たら、自分で馬を引っ張って、先生の待っている馬場に連れて行く。

初めて馬の背中に乗ったときの感想は、誰でもが抱くように、「高いなあ」ということであろう。人が乗っているのを見ていると、そんなに高いとは思えないが、自分が乗るとすごく高いところに乗ったように思えてしまう。高くて怖いという気持ちもあるが、同時に高くて気持ちがいいのも事実である。

馬に乗ると、まず並足(なみあし)の練習が始まる。上達すると、並足から速歩(はやあし)、駈歩(かけあし)へとレベルが上がっていく。

並足といっても少しスピードが出ている。馬の背中は歩く(走る)たびに、上下運動をする。乗り手はその上下運動に合わせて、お尻を上げたり下ろしたりしなければならない。お尻を上げるときには鐙(あぶみ)の上に立ち、下ろすときには鞍の上に座る。この乗り方を正反動といい、初心者の基本の乗り方になる。乘っている間中、馬の脇腹を自分の腿でしっかりはさまなければならないので、腿の内側がとても痛くなる。

練習場の馬場は2~300m四方の広い芝生広場で、馬は一番の外側を回る。正反動の動きをしながら、馬をまっすぐに歩かせ、角に来たときには左に曲がらせる。

馬は人を見ると言うが、乗り手が素人であると、乗り手をバカにする。練習場でただまっすぐに行かせればいいのに、馬はすぐ横に出て芝生の草を食べようとする。正反動がうまく行っていると思っているのに、突然下を向いて休憩し始める。

もっと難しいのは角の曲がらせ方である。乗馬靴を載せている鐙(あぶみ)の内側には突起があり、その突起を馬の横腹に当てることで動きを制御することができる。角を左に曲がらせたいときは、左足の突起を直角に馬の横腹に突き立てる。横腹を突き立てられた馬は痛いものだから、命令に従って左に曲がる。右に曲がりたいときは、右に突起を突き立てる。

慣れてくると、そんなに強く突き立てなくても、ちょっと触るだけで曲がってくれる。

はっきりと指示をしないと馬は言うことを聞いてくれないので、突起を突き立てていても全然曲がってくれないときもある。

私は不器用であったためか、正反動の練習だけで半年以上かかった。

 

福岡の乗馬クラブで印象的だった情景が二つある。

一つは、たぶん一頭の馬が言うことを聞かなかったのだろう。オーナーがその馬めがけて、横腹を蹴り上げていた情景である。単に横腹を鞭などで打っているのでなく、オーナーが体ごと横腹に飛び掛かり、足蹴りしているのである。何度も何度も足蹴りする。

オーナーの態度が真剣だったので、私はただただおろおろしていた。

事が終わったときオーナーはこう言った。

「こうしておかないと、これから言うことをきかないから。」

馬がオーナーの言うことを聞かなかったことに対して、飼い主としてきちんとけじめを付けるために制裁を加えたらしい。オーナーの単なる一時的な感情からではない。

人と動物の真剣勝負を目の当たりにして、動物を訓練するのは真剣なことなんだと実感した。

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 二つ目の印象的な情景は外乗のときのことである。

乗馬クラブは油山という600mほどの山の麓にある。あるとき、特別プログラムといって油山へ外乗することになった。指導員の女性が引率してくれたし、山の麓の周辺を歩くだけなのだが、私は初めての外乘で緊張していた。麓といっても山地だからデコボコがあり、そのたびに馬の振動がお尻に伝わってくる。

馬自体が大人しいので、急に暴れ出す心配はなかった。

森林の中から外に出て麓を歩いていたときだった。そのころは、ちょうど桜の時期で、何人かの人が桜見物に来ていた。シートを広げて、昼食をとっていたような時間帯だった。

とそのとき、桜見物客の一人が昼ご飯を終わって、シートを片付けるために立ち上がった。両手でシートを肩の高さまで持ち上げ、ゴミを振り払おうとした。シートの裏はアルミ箔からできているのか、銀色であった。その日は良い天気であった。その銀色のシートが太陽に反射し、ギラリと光った。

馬は臆病な動物だと言われている。臆病というか、神経が敏感な動物である。馬は目の前に突然銀色の光が光ったのに驚き、「ヒヒーン!」と声を出して、飛び上がった。両前足を上に高く上げたのである。もちろん馬の上半身は立ち上がり、私は馬にしがみついた。

指導員の女性が馬のたずなを引っ張ったので、馬はすぐに普通の姿勢に戻り、私は幸い落馬することはなかった。しかし、びっくりした。私には初めての経験であった。

「へー、あんなシートの照り返しで、馬はこんなにびっくりするんだ!」

 

馬が本当に繊細な動物であることがよくわかった経験であった。