2701)★日本語(文法)ものがたり30「使われない言葉」

 対談番組で言語学国語学者金田一秀穂氏と、作詞家の秋元康氏が対談をしていた。両者とも日本語を扱う仕事であるので、話の中身は「言葉」が中心になる。いくつかの「言葉」が消えつつあるが、現状はどうなっているのだろうという話が出た。

  

          

 

 年配の人達には馴染みの「言葉」が、死語になったり、死語になりつつある。今回は、対談で話題に出たそういった「言葉」について少し考える。

 

「みだりに」

 タクシーの中に、「運転手にみだりに話しかけないでください」という張り紙があった。いくつかの論争があって、その貼り紙は取り外されたそうが、なぜ取り外されたのだろうか? 

         

 

 問題になったのは、「みだりに」の使い方が適切かどうかという点である。「みだりに」は「秩序を乱して」「むやみに」「わけもなく」「思慮もなく」「無作法に」「しまりなく」(広辞苑)等の意味がある。

「みだりに」は「意味的にマイナス評価(「良くない」という意味)を表す語で、多くは否定的文脈の中で用いられる。(「みだりに高山植物を採集する人が増えている。」のように肯定文で用いられる場合もある。)

 

 (1) みだりに教室から出てはいけません。

          

 

 (2) 彼らの話にみだりに口出しすべきでない。

    (3) 学生はこの部屋にみだりに入るべからず。  

    (4) みだりに妻を離縁するものでない。

    (5) みだりに欠席するべからず。

    (6) みだりに殺生するものでない。

  (7) みだりに男に関心を抱くな!

            

 

   1)~(7)の例を見ると、「~してはいけない」「~ものではない」「~べからず」「~(する)な」など、「みだりに」はかなり強い命令的表現とともに使われていることが分かる。(冒頭のタクシーの例の「~しないでください」もそうである。冒頭のタクシーの文が論議を呼んで取り外されたのは、「みだりに」が強い否定の禁止、指示、命令を表すために、タクシーの客に対して失礼に当たると判断されたのであろう。

 対談の中で出た問題の「言葉」は、他に、「殿方(とのがた)」「乳母車(うばぐるま)」「下駄箱(げたばこ)」「筆箱(ふでばこ)」「切符(きっぷ)」「グループ」であった。

 

「殿方(とのがた)」

 「殿方」に対する語は「ご婦人」であろう。男性を意味する「殿方」は今ではほぼ死語になっている。私自身が記憶しているものとしては、男性の「お手洗い」のドアに「殿方」という標識を見たことがある。また、会話の中で、「これについては、殿方はどう思っているんだろうか?」とか「殿方はどう言うんだろう?」のように、少し茶化して言うこともありそうな気がする。

 

         

 

「乳母車(うばぐるま)」

 「乳母車」は今では「ベビーカー」や「バギー」と呼ばれることが多い。福沢諭吉アメリカから持って帰ってきたそうで、本来は「乳母の代わりをつとめる車」という意味であった。日本には「乳母」はほとんどいないので、なぜ「乳母車」なのかと疑問に思っていたこともある。 

        

  

「下駄箱(げたばこ)」

 個人の家では普通は玄関を入ると下駄箱がある。カランコロンと履く下駄がない家庭でも、それを「下駄箱」と呼んでいる。小学校では玄関(昇降口)で靴を履き替える。小学生が履いているのは運動靴だ。上履きも運動靴である。

では、小学校でも「運動靴」を置くところは「下駄箱」と言うのだろうか。ウエブで調べてみると、「下駄箱」と言っている学校もあるが、多くは「靴箱」「シューズボックス」、または、場所の名前を使って「昇降口」と言っているところもあるようだ。「下駄」をほとんど見たことのない子供もいるだろう。彼らにとっては、「下駄箱」ではなく「靴箱」のほうが納得しやすいにちがいない。

 

          イラスト学校靴箱 に対する画像結果

 

「筆箱(ふでばこ)」

 昔は日本では筆の使用が盛んであった。しかし、子供達にとって、現在では筆はお習字のときに使うだけで、「筆箱」には鉛筆やボールペンが並んでいる。子供達は「筆箱」とは言わずに「ペンケース」や形に応じて「ポーチ」と呼ぶらしい。

     


         

「切符」

 電車やバスの切符は「切符」と呼ぶが、コンサートや映画館に入るための「切符」は「チケット」と呼ばれる。その延長上にあるのか、子供や若者が「切符」をすべて「チケット」と呼ぶことが多いようだ。

そういえば、私なども新幹線の「切符」、特に正方形の大きい「切符」はチケットと呼ぶことがある。

  

 

「グループ」

 AKBや向坂46などの歌唱グループや、ボーカルグループ、バンドグループなどは「ユニット」と呼ぶらしい。秋元康氏が言明していたので、業界では当然のことなのであろう。

    

 

 最後に皆さんへの課題です。

皆さんの身のまわりに、昔は使っていたのに最近はあまり使われない「言葉」がありますか。また、同じ「言葉」だけれど、意味合いが変化しているというようなものがありますか。一つでもいいので、もしあったら、教えてください。

270)中西良太さんの人生のとらえ方

 中西良太さんは中堅の俳優である。兵庫県西脇市出身、今年で70歳古希を迎えた。「十津川警部シリーズ」や「特命刑事」などの刑事ものや、数多くのテレビドラマ、NHKの大河作品にも出演している。映画監督もやったことがあるという。

 

         

 

「その1 渡瀬さんとの交友」

中西良太さんは、俳優の渡瀬恒彦(1944年72歳物故)と長年親交があった。

 

           

 

 渡瀬さん(日活俳優、渡哲也の弟、テレビの「十津川警部シリーズ」などで主役を務める)は中西さんの先輩で、はじめて喫茶店で会った時には、先輩でありながら立ち上がって笑顔で握手をしてくれた。渡瀬さんは静かで、侍のような人であった。彼を表すなら「太・重・静」の3字に尽きるという。

 

    

 

 その後、「紅茶を飲みませんか?」と楽屋に誘われた時も、特に話をするわけではない。中西さんは渡瀬さんが先輩なのでかなり緊張したが、渡瀬さんにとっては何もしゃべらない時間が良かったようだ。それ以後も何度も楽屋に行くが、何もしゃべらないまま時間を過ごすことが多かった。

 

      



 渡瀬さんのお宅に招かれたことがあった。テーブルの上や、ソファの上、トイレにまで台本が、それも開かれた状態で置いてある。中西さんは、渡瀬さんが、いつも台本を見たり読んだりする勉強家であり、責任感のある、きちんとした性格の人であることを知る。 

 

 

「その2 中西さんの人生観」

 中西さんは、人生を楽しみ、何かをやってやろうという前向きの人だが、彼の人生に対する考え方を聞いて、参考になったことがある。

 グラフに使われる線に放物線というものがある。代表的には左右が低く、真ん中あたりで盛り上がる、いわゆる山型の線である。人生はよく放物線にたとえられる。赤ん坊として生まれ、どんどん成長して、少年期、思春期、青春期を経て、大人になっていく。そして、人は自分の力で充実した生活を送るようになる。

         

              

 つまり、人は、ゼロだった赤ん坊の時代から、成長をして、少しずつ充実した、豊かな人生の真っただ中に入っていく。それが放物線の頂点に当たる部分である。

30~50歳頃になると、人は社会的にも家庭的にも充実度が最高潮になり、定年を迎えるころから人生はだんだん下り坂に向かう。

 

 しかし、中西さんは人の人生を逆にとらえる。彼は、真ん中で山型になる放物線ではなく、最初は髙いところから始まり、真ん中で低くなり、また上に上がっていくという放物線を思い描く。

               

 

 赤ん坊として生まれた時は、誰でも親や親族から注目され、可愛がられる。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と、親や親族に庇護された毎日を送り、特に苦労はない。しかし、30~50歳となると、仕事でも家庭でもいろいろな責任を負わされ、問題を抱え、苦悩することも多い。

 そして、それを乗り切り定年頃になると、仕事上も経済的にも自由を得ることができ、自分のやりたいことをやれる時期になって行く。誰の目も気にすることなく、自分のやりたいことを、自分の責任で模索することができる。スポーツも、趣味も、研究も、旅行もやる気にさえなればどんどんできるようになる。

 そうした自由と余裕が得られるのが、ちょうど老年期に差しかかるころであり、放物線で言えば、一旦下がった線がどんどん上がっていく時期である。

 

      

 


 もちろん今まで述べたことは一般論で、中にはそのように上り坂を登れない人達もたくさんいる。しかし、総じて言うなら、老年期は時間的にも経済的にも比較的ゆるやかに自由を楽しめる時期である。

 老後こそ、「自分がいいな!」と思う時間を過ごしたい。「自分がいいな!」と思う時間を大切にしたい。色々な意見があるだろうが、中西さんはそう考えている。

 

 中西さんの、人生を逆放物線としてとらえる考え方は、とてもおもしろいと思う。

「そうか、私達は一生懸命働き、一生懸命子育てをした30~50歳台を踏み台として、また舞い上がると考えればいいのだ。老年期を、飛躍とまでは言えなくても、飛翔の年代と考えればいいのだ。老年期は、どんどん上に上昇していく時代なのだ。

 中西さんのこのとらえ方は、どこか私の心を元気づけてくれたように思う。

269)『雑草のふしぎ』を読んで

           

 

 NHK朝ドラの「らんまん」(2023年4月~同10月)がヒットした。植物に全人生を捧げる主人公 牧野富太郎・寿衛(すえ)夫妻の生き方を見て、野に咲く植物や雑草に興味を持った方々も多かったのだろう。

『雑草のふしぎ』稲垣栄洋(いながきひでひろ 静岡大学教授 道草研究家)は、ドラマが話題のころ(2023年)に出版された。副題として「面白すぎて時間を忘れる」とある。

 この本に取り上げられている雑草は、雑草にあまり馴染みのない私でも聞いたことがあるものが多い。

カヤツリグサ、ツメクサ、カラスノエンドウホトケノザツユクサ、スミレ、ナズナオナモミ、ヨシ、ススキ、ヒメジョオンなど26種になる。それらについて、花びら、おしべ、めしべ、花粉、種子、蜜、茎、葉、根、昆虫などとの関わり方などが、興味深く説明されている。

 本を読んで、色々のことを学んだ。例えば、ニホンタンポポセイヨウタンポポの違い。

 

        ニホンタンポポ

 

        セイヨウタンポポ

 

 ニホンタンポポは古くから日本にあるもので、セイヨウタンポポは明治時代以降に海外からやってきたタンポポである。前者は集まって咲き、アブの力を借りて受粉する。後者は一株で咲き、昆虫の力を借りなくても、自分で種子を作る能力を持っている。

 ニホンタンポポは春にしか咲かない。一方、セイヨウアンポポは、一年中花を咲かせることができる。それを聞くと、ニホンタンポポセイヨウタンポポに負けてしまうのではないかと思ってしまうが、そうではない。ニホンタンポポは日本の自然をよく知っていて、他の雑草が生い茂る夏には「夏眠」といって眠ってしまう。そして、秋が訪れると、再び葉を伸ばし、冬を越して春には花を咲かせる。セイヨウタンポポは、夏にも花を咲かせようとするので、春になると疲れてしまい、競争に負けて、生存できなくなってしまう。

 

 著者の稲垣氏はいくつかの雑草を比べ、どちらが賢く生きているかを、ユーモアたっぷりに説明してくれる。

 ツユクサはその青い花に黄色のおしべが印象的だが、なぜ夏の朝に咲くのか。

ツユクサはアブに花粉を運んでもらう植物である。しかし、春はたくさんの花が咲くので、ツユクサにとっては競争相手が多い。それで、競争相手の少なくなる夏を待って、それもアブが元気な朝早くを選んで花を咲かせるという。

 

        

 

 稲垣氏は、雑草が、抜いても抜いても生えてくる理由も説明している。

草取りされるような環境に生える雑草は、すでに先代が次々に種子を作り、土の中にばらまいている。人が草取りをすると、種子は土とかき混ぜられ、土の中にはたくさんの雑草の種子がためられていく。また、草取りをすると土がかき混ぜられて、土の中に光が差し込む。チャンスを待っていた雑草の種子は、光が当たったことを合図に一斉に芽を吹き出す。種子にとっては、人間が芽生えの手助けをしてくれたということになる。草取りをしたはずなのに、数日もすれば、一斉に雑草が生えてくる。

こうして、人間が抜いても抜いても、雑草はそれをチャンスのように、生えてくるというわけである。

        

 

 稲垣氏によると、雑草は「雑な草」である。沢山の種類の雑草がある。そして、さまざまな生き方をしている。(雑草は)自分が成功しても、それに一切こだわらず、さまざまな子孫を残す。成功の方法は一つではないことを知っているし、生き方に答えがないことも知っているのだという。

 

稲垣氏は問いかける。そして、次のように答えている。

 

「雑」とは何だろう。

雑は整理されない力である。

雑は枠に収まらない力である。

雑は常識や思い込みに囚われない力である。

雑は変化する力である。

そして、雑は新しいものを生み出す力である。

 

そうだとすると、今の時代にこそ、「雑」はふさわしい。

 

      

     

   

     

 

268)★日本語(文法)ものがたり29「~個」

          

今日は物や人の数え方について考えます。

 

 日本語では、数を言うとき、物の形状に応じていろいろな呼び方があります。人には「~人」、動物には「~匹」「~頭」、車や機械には「~台」、薄っぺらい物には「~枚」、長細い物には「~本」などです。これらの数え方を日本語文法では「助数詞」と言います。

        

 

 アジア系の留学生は自国語にも助数詞があることが多く、あまり驚きませんが、それ以外の外国人はその多さに驚きます。これは外国の方に限らず、私達日本人でも時々どう呼ぶんだったかと迷うことがありますね。

 例えば、鶏(にわとり)なども、「1羽2羽・・」と数えているうちに、6匹、7匹・・」と言ってみたり、鯨が港に入ったときなども、「鯨一頭が・・」というべきところを「鯨一匹が・・」と言ったりしてしまうことがあります。

 

       

 

 次の話はNHK文化放送研究所の記事の一部ですが、上野動物園でパンダの赤ちゃんが生まれたとき、「~匹」を使うか「~頭」を使うかが問題になったそうです。

通常、動物一般は「匹」、人より大きな動物は「頭」で数えます。パンダは大きい熊なので「~頭」で数えられますが、皆さんもご存じのようにパンダの赤ちゃんは生まれたときの体重が124グラムと、人の手にのるような小ささです。そんな小さな赤ちゃんに「1頭の赤ちゃんは・・」などと、「~頭」を使うべきか否か?

 NHKは統一するため、最終的には小さな赤ちゃんにも「頭」を使ったということです。

 

 

 

 今日取り上げるのは、助数詞「~個」です。りんごやボールなど、どちらかというと小さ目の、丸い形の物に用いることが多いです。

漢字表記としては、「個」のほかに「箇」も、その一部を使った「ケ」も使うことがありますが、現在では「竹」冠の「箇」でなく、「個」を使うことが多いです。

「~個」の使われ方ですが、最近若者の間で、「~個」が多用される傾向があります。

 

(1)あの子は私より1個上だよ。

(2)A:あの人とは学年が何個違うの?

  B:2個違う。

 

 (1)(2)は何について話していると思いますか?

そうです。1)は年齢について、2)では「学年」について話しています。

若者の間では、年齢や学年に「~個」を使う人が少なくありません。

 では、次の「~個」はいかがでしょうか?

 

(3)席が1個しか空いていない。

          

(4)(会議で)いいアイデアは一個もない。

 

         

 

(5)(図書館で)大手の新聞が1個もない。地方紙が1個だけあった。

 

         

 

(6)袋を2個にしたほうが、軽くなって持ちやすい。

        

(7)あの人は別荘を2個持ってるよ。

(8)そういうお店は何個かあります。

(9)大きな家財道具を1個だけどこかに送りたい事ってありますよね。でも、「家具や家電を1個だけなんて運んでくれる?」という不安や疑問が浮かびますよね。

         

これらの例文は実例です。

広告やちらしなどにも「~個」は現れます。

 

(10)1個からでも無料でお届けします。お昼のお弁当は、朝9時半までにご注文いただければ、お弁当1個から無料でお届けします。(お持ち帰り弁当屋

(11)一個一個(いっこいっこ)」の意味や使い方わかりやすく解説。(辞書・解説書の広告)

         

 

(12)1個から注文OK! 印刷サイズが選べる 写真加工ソフトがなくてもつくれる スマホから簡単に注文できる (写真プリント店の広告)

 

         

(3)~(12)を「~個」を使わずに表してみると次のようになるでしょう。

 

(3)席が一つしか空いていない。

(4)(会議で)いいアイデアは一つもない。

(5)大手の新聞が1紙もない。地方紙が1紙だけあった。

(6)袋を二つにしたほうが、軽くなって持ちやすい。

(7)あの人は別荘を2軒持ってるよ。

(8)そういうお店は何軒かあります。

(9)大きな家財道具を一つだけどこかに送りたい事ってありますよね。でも、「家具や家電を一つだけなんて運んでくれる?」という不安や疑問が浮かびますよね。

(10)1つからでも無料でお届けします.。お昼のお弁当は、朝9時半までにご注文いただければ、お弁当一つから無料でお届けします。

(11)「一つ一つ」の意味や使い方わかりやすく解説。     

(12)1枚から注文OK! 印刷サイズが選べる 写真加工ソフトがなくてもつくれる スマホから簡単に注文できる。

 

 こうして見てくると、「~個」の代わりに「~つ」の使用範囲が広いことに気がつきます。「~個」が物にしか用いられにくいのに対して、「~つ」は物以外の「アイデア」や「問題」「年齢」などの「事柄」にも使えるということが分かります。

 

 外国人に細かい助数詞を教えなくてもいという意見があるかもしれませんが、彼らが「~台」とか「~匹」とかを聞いたときに何を意味しているか分かったほうがいいし、少なくともよく使われる助数詞は知っていたほうがいいように思われます。

267)世界に目を向ける

         

 国際医療ボランティア桑山紀彦(のりひこ)氏。1963年岐阜県高山市生まれ。

精神科医 60歳。

 学生時代(山形大学)に各地を放浪し、卒業後に休暇を利用して、フィリピンなど世界各地で医療ボランティアを始める。それ以来35年ボランティアを続けている。

 

       

 

 中でもパレスチナガザ地区には何度も訪れ、子供達の心のケアに当たってきた。現在は神奈川県で「蛯名(えびな) 心のクリニック」を開業している。

ガザ地区の現状についてお伺いしたことを、その一部ではあるが、ご報告する。

(インタビューはNHKアナウンサー)

 

         

 

アナ:今注目を浴びているガザ地区は、人口220万くらい、相当過密な感じですよね。広さは種子島と同じくらい?

桑山:おっしゃる通りです。世界で一番人口密度の高い地区ですね。しかも、ぐるり3方を壁に囲まれていて、海の方向にもバリケードがあるんで、完全に出られない状態で、そこに存在しているのがガザです。

 

       

 

ア:それじゃ、まるで監獄のよう・・・。

桑:世界一大きい天井のない監獄。

ア:いつも映像に出てくるのは、ガレキと化した通りだったりするんですが、農地とかそういうところはあるんですか?

桑:ある程度農地もあります。町としてはガザ、ナラなどの3つが大きいんですけど、3つの街をつなぐところにはある程度の農地が広がり、農業して暮らしていたりすることもあります。

ア:多くはどうやって生計を立てているんですか。

桑:人口の約7割が密漁していると言われています。また、仕事がないと言われています。でも、何とか見つけた仕事を細々と分け合いながら、必死に仕事しているのがガザの状況です。

ア:ガザ地区とのお付き合いはかなり古くからのようですね。

桑:2003年からになります。もう20年以上やらせていただいて、心のケアを続けて20年です。

ア:はじめて行ったときの印象はどうでしたか?

桑:こんな場所が世界にあるのかと、びっくりしました。それは、生まれてから一回も外に出たことがないという環境、しかも限られたチャンスの中で生きざるを得ないので、自分がガザに生まれたら絶望するだろうなと思うぐらいの、良くない環境だったんです。

 

      

 

 ところが付き合ってみると、人としての優しさや思いやりや、そういったものが人一倍強いもので、この劣悪な環境の中で、人間はなぜこんなに優しくなれるのかと思いました。

 ガザにおいても僕を家族と呼んでくれる家族が3家族いるんですが、行くと料理がグワーッと出てくるんですよ。で、申し訳ないなと思いながら食べますよね。僕日本人だから、いくら払えばいいかなと思うじゃないですか。思わずお金なんか見せようもんなら、笑われますよ。

 

      

 

「お前、何を考えてるんだ、お金なんか要るわけないだろ? お前は僕の家族なんだ。家族が戻ってきたらもてなすのは当たり前だ。」

 そうやって20年付き合ってきました。はい、それがガザですね。

・・・・・・・・・・

桑:その中の男の子に絵を描いてもらったことがあるんです。その子が描いた絵は色がないんですね。色鉛筆はあるのに。僕が「どうして色がないのか?」と聞くと、その男の子は、「空爆にさらされている僕の町に色なんてあるか!」と言いました。

それ以来彼との付き合いが始まって、14年になります。

 

        

・・・・・・・・・・

桑:戦争を見ていると、正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義になるんだって、よく思うんです。正義の反対(つまり、悪)があれば、皆で「それはだめだ」と言えるじゃないですか。でも、正義の反対はもう一つの正義なので、そちらにも正義がある。

ガザにしても、ガザの正義とイスラエル側の正義がつばぜり合いしているんですね。どちらかがたぶん悪であれば、世論は動くんだと思うんです。だけど、そうではなく、人のエゴによって、正義と正義がつばぜり合いしているので、紛争が終わらない。だとしたら、自分が正しいと思うのはよく分かりますけど、相手が訴えている正義というものに耳を受向けて、「あれ、どういうこと言ってるのか」とか「自分と同じようなことを言ってるのかもしれない」とか、そんな理解が得られるのかもしれないと思うんです。

 

      

 

 耳を貸さないから、向こうの正義が嫌でしょうがないけど、ちょっと耳を貸した時に、理解し合えたりすることが多いなあと思うんです。

相手の正義を否定するのではなく、少し整理をして余裕を持てたら、人類って変われるんじゃないかと思いながら、この活動を続けています。

ア:ロシアもウクライナもどっちも同じ、似たもの同士だという感じがしませんか。

桑:ロシアにしてみると、「兄弟として育ってきたお前が行こうとしているのか?」

ロシアから見るとこれ以上付き合っていると、自分も危ない。でも、似たもの同士でもあり、僕が驚いたのは、ウクライナの人はほとんどロシア語を使っていました。

ア:ウクライナ語ではなく?

桑:それ習慣だと思うんです。それほど近い存在だと思うんです。だったら、仲良くできるきっかけってあるだろうと思うんです。

ア:このウクライナの戦争というか紛争をどう思っていらっしゃいますか。

桑:ガザからイスラエルに入る道があるんです。以前はそこを通れるパレスチナ人は10人ぐらでした。でもこの数年間は、パスカードを持ったパレスチナ人は、ポンとタッチするだけで入れたんのです。

そして、イスラエルで仕事して、夕方には帰って来られたです。

 「あ、良くなってきている。パレスチナイスラエル人はこのまま行ったらいいかもと思いながら2年過ごしていたんですよ。それをあるゲリラの人々が攻撃してしまったんです。自分達が忘れ去られてしまうと不安だったりで・・・。

 攻撃されたほうのイスラエルもびっくりしたと思いますよ。その怒りが今も続いているんだと思うんです。

 やろうと思えばやれた。前のパレスチナイスラエルの関係を思い出せば、やれると思っているので、今はある人々とやられた側のイスラエルがカッカとなっていると思いますので、少し落ち着いた時に、似たもの同士なのだから、分かり合える時が必ず来ると、私は思っているんですが。 

          

        

 

 対談をご紹介するのはここまでです。現地でボランティアを続けておられる方だけに、報道とは違った現場の人達の姿が見えてきます。パレスチナ人とイスラエル人が理解し合い、共生し合っていく方向で事態が解決されることを祈っています。

 

 

266)『どうせ死ぬんだから』を読んで

 老年学が専門でもある和田秀樹氏の本は今までに何冊か読んでいる。共通しているのは、新書版なのに字が大きくて、隙間が多くて、太字が目立って、「これは、普通の文字の大きさと行詰めなら、本、半分ぐらいの量しかないなあ」と思わせる。ゆったりと、余白ある紙面に、話し言葉が遠慮なく迫ってくる。

 

         

 

 タイトル『どうせ死ぬんだから』も、編集者が決めたタイトルかもしれないが、普通なら禁句に近い表現だ。

 しかし、読んでいて、「なるほどな」と思わせるのが和田秀樹氏のやり方である。的確なのである。もっともなのである。

 

          

 

 本の中で、まず、ぐっと刺さったのはこの言葉である。

 

大事なのは、「長生き」ではなく、「長生きして何がしたいか?」

 

 和田氏の読者への提言の一つは、「ぜひ長生きして良かったと思えるものを作ってください」。

 自分の経験を生かして社会に貢献をする、夫婦で温泉旅行、趣味の写真を撮り続ける、など。自分が楽しいと感じることなら何でもいい。

「リビングウイル」(遺書)など、人の心はくるくる変わるから、その都度書き直せばいい。

 

和田氏は続ける。

 70代の過ごし方が大切。脳の機能を80代以降もどうやって保つか? 同時に70代に持っていた運動機能をいかに長生きさせるか。

個人差の原因は、体や頭を使い続けているかにある。高齢者にとって「脳機能」「運動機能」を「使い続ける」ことが重要で、使えば使っただけ、老化を遅らせることができる。

 マイナス思考になった時は、「なんとかなるさ」とつぶやいてみる。

 

認知症については、

・年をとれば認知症は避けられない。

・でも、高齢になると、ゆっくりとしか進行しない。

だから、この2つの原則を認めて、「なったら、なったときのこと」と開き直る。

 

       

 

うつ病については、

・「うつ病」は、「認知症」よりこわい。

・高齢になればなるほど、心と身体の結び付きが強くなる。つまり、心が弱くなると、身体が弱くなり、逆に身体が弱くなると、心も弱くなる。

 

       

 

和田氏は介護問題についてもこう述べている。

・約8割が人生の最後を「自宅」で迎えたいと答えている。(2017年度厚生労働省調査)

・そして、避けたい場所として、42.1%が「子の家」を挙げている。

・高齢者が重視するのは、家族等の負担にならないことである。(95.1%)

 

 一方で、子供世代の35~59歳の男女は、85.7%が、「(親が)家族等との十分な時間を過ごせること」と回答している。つまり、親世代は子供に迷惑をかけたくないと思い、子供達は親を大切にしたいと思っている。

 

         

 子供世代が、親を介護したい、介護すべきだと思うのが常であるが、しかし、和田氏はその考え方に警鐘を鳴らす。

 

・「在宅介護は日本の美風」なんて真っ赤なウソである。

・私が施設介護をすすめる。その理由は、

 日本には、「自分の親だから、子供が面倒を見たほうがいい」「縁あって連れ合いになったのだから、子供が面倒を見るのは当たり前」という考えが残っている。しかし、少なくとも、義務感で在宅介護を選ぶのはやめたほうがいい。

・なぜなら、介護は一人で抱えきれるほど、生やさしいものではない。

・むしろ、身内は介護される側の精神的なケアに重点を置き、どのような介護が最適であるかに専念したほうがずっと合理的で、お互いが良好な関係でいられる。

 

そのためには、

介護保険制度を知り、大いに利用すること。

最も軽い要支援1でもある程度の支援はしてもらえる。

・地方への移住、地方で施設に入るなどは、慎重に考えたほうがいい。交通手段がない、買い物に行けないなど不自由が起きる。

・何でも気軽に相談できるケアマネに出会えれば介護は一気に楽になる。

・情報はできる限り集めて、人生の最後の場所を穏やかに過ごす場所として、施設と在宅それぞれのメリット、デメリットを考慮しながら、無理のない決断をすること。

 

    

 

・老いていくということは、誰かに貸しを返してもらうこと。

・卑屈になることはない。人生の終盤は、堂々と社会に貸しを返してもらうつもりで、迷惑をかければいい。

・日本の高齢者は気が弱い。

・財産を子供に残すために自分がしたいことを我慢するというのは、本末転倒である。高齢者はどんどんお金を使い、消費者として死ぬまで「現役」でいる。高齢者には、未来の日本を救えるだけのパワーがあるという自信を持って、堂々と現役でいること。

・ワガママ老人が元気で長生きする。

 

        

最後に和田氏のまとめ「極上の死に方」を示す。

 

ご 極上の死を迎えるために、自分が納得のいく生き方を貫き通す。

く 苦しいことやわずらわしいことは、できるだけやらない。

じ 自由気ままに暮らす。我慢すると心身ともに老化が加速する。

よ 要介護になったら残された機能と介護保険をフルに使い、人生を楽しむ。

う うかつに医者の言うことを信じない。治療も薬も選ぶのは自分。

の 脳と体を使い続けて、認知症と足腰が弱るのを防ぐ。

し 死を恐れれば恐れるほど、人生の幸福度は下がる。

に 人間関係が豊かなほど老いは遠のく。人づきあいが億劫になったら、ぼける。

か 身体が動かないとき、意欲が出ない特は、「なんとかなるさ」とつぶやく。

た 楽しいことだけ考えて、とことん遊ぶ。どうせ死ぬんだから。

265)★日本語(文法)ものがたり28「切(り)身」

           

 

 行きつけのスーパーでパック入りの豚肉を買った。ステーキ風に焼いてもいいし、パン粉を付けてカツにしてもいいと考えていた。夕食の準備をする段になって、そのパックをまじまじ見た時、「米国産豚ロース切身」と書かれているのに気がついた。

(「切身」「切り身」はどちらも使われるが、ここでは「切(り)身」を使う。)

 

                   



 「魚の切(り)身」とは言うが、「肉の切(り)身」は不自然ではないかというのが、私が抱いた疑問であった。「肉の切(り)身って言う?」

早速、日本語辞書に当たってみる。

 

 イラスト豚肉切り身 に対する画像結果

 

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精選版日本国語大辞典

 魚肉や肉、くだものなどを適当な大きさに切ったもの。

(本辞典では「切(り)身」の全く異なる意味も載せていた。)

 

デジタル大辞泉

 魚などを、適当な大きさに切ったもの。

 

新明解国語辞典

 一匹を幾切れかに切った魚の肉。かぞえ方:一切れ

 

例解新国語辞典

 一匹のさかなをいくつかに切ったもの 句例:さけの切り身

 

岩波国語辞典

 一匹の魚を幾つかに切ったもの 肉の断片

 

これらの国語辞書では、「切(り)身」は、「魚を切ったもの」のように「魚」に限定しているものと、「魚など」も含め、「肉」にも少し言及しているものとに分けられる。精選版日本国語大辞典では、「肉」「果物」まで取り上げている。

 

 日本語の専門ではない、3人の女性に聞いてみた。( 262)で登場いただいた。)

 

Aさん:魚も肉も果物も、全て切り身でよいと思う。だが、肉はステーキ1枚とか、果物はりんご一切れとか言うと思う。

Bさん:切り身? 一見魚かな?と。果物は一切れ、肉は一枚、かたまりなら一切れ。

Cさん:ロース肉は1枚2枚。こま切れ肉は何g、果物は1切れ2(ふた)切れ、1個2個。肉やりんごには切り身とは言わない。

 

 A~Cさんの意見をまとめると、「「切(り)身」は主として「魚」に使われる用語であり、仮に「肉」「果物」に使っても間違いではないが、少し落ち着かない。むしろ、1切れ2切れ、1枚2枚、1個2個などで呼ぶのが普通である」となろう。

 

では、「切(り)身」は、なぜ「魚」に使えるのに、「肉」には使えないか。

「魚の切(り)身」の反対語は「魚まるまる一匹」である。または、「切(り)身」は「全体」に対して「一部分」とも言える。

 英語で言うなら a whole(全体)に対する a portion(部分)である。

 では、「肉」の場合はどうか? いろいろな肉があるので、代表的な牛、豚、鶏について考えてみる。「牛まるまる一頭」と「牛一切れ」、「豚まるまる一頭」と「豚一切れ」、「鶏まるまる一羽」と「鶏一切れ」となるが、3例とも、全体と部分の対立が漠然となる。

 

                 

 

                   

 魚の場合は、「まるまる魚1匹と切(り)身」となって全体と部分が対立的にとらえやすいが、牛や豚、鶏の場合は、部分といっても、どの部分、どの一切れを取り上げるのか分かりにくい。

 むしろ、モモとかバラ、ロース、ヒレ、サーロインなどの部位を明確にして取り上げるほうが分かりやすいし、役に立つ。または、形状を詳しく表して、豚肉の「薄切り、厚切り、細(こま)切れ、切り落とし」、鶏なら「ムネ肉、ササミ、手羽元、手羽先、もも、皮」などと言ったほうが分かりやすい。

 

                             

 

 言葉は経済的にできている。使われにくいものには名前や呼び方は乏しく、使われやすいものに対して種々の名前や呼び方が付く。「切(り)身」が主に魚に使われるというのも、日本が元々は魚文化であるからであろうか。